見出し画像

ぼくとフランソワ・シモンさんの15年。 10.

※ こちらの内容は、ウェブサイト(現在は閉鎖)にて2016年~2019年に掲載したものを再投稿しています。内容等、現在とは異なる部分があります。ご了承ください。

うちの店に初めてビゴさんがお越しになったときのこと。
いきなり厨房に入って来られ、「種を見せろ」と言われるので渡すと香りを嗅がれ「とても良い種だ」と褒められた。
「ビゴさん、でも全然売れないんです」と言うぼくに、ビゴさんはこう言われた。

「売れなくても作り続けなあかんパンもある。これがそうや」

作り続けているうちに少しだけ売れるようになった。いつも買ってくださるのは、京都在住のフランス人、ドイツ人、オーストラリア人の方々とごく僅かな日本人の方だけだったけれど。
「カンパーニュというパンに対する消費者の認識もやはりいまと比べると当時は低かったと思われる」と書いたけれど、それを実感する出来事があった。

当時まったくというほど厨房から離れることができず銀行にさえろくに行けなかったぼくは、向かいにあったセブンイレブンの店長さんのお言葉に甘え、いつも硬貨の両替をしていただいていた。
ある日、たまにはお礼をしないと、と思ったぼくは店長さんに「いつも両替をありがとうございます。これ宜しければどうぞ」とグラシン紙で包んだ一番大きなパン・ド・カンパーニュ・ルヴァンをお渡しした。
「ありがとう」と、その場で包みを開けられた店長さんは、真顔でこう言われた。

「これ、何に使うの?」

少し驚きはしたものの、パンに興味のない人からすれば、これが現実なのかと意外と冷静に思った憶えがある。
「これ、石みたいですがパンなんです。1cmくらいにスライスして食べてみてください。少し酸味があるので、そのまま食べるよりバターを塗ったりチーズがあれば一緒に食べてみてください。その方が美味しいですから。もしお口に合わなければ、何か重しにでも使ってください(笑)」と言って、ぼくは店に戻った。

都会の方や食に携わるお仕事をされている方には信じられないような話だと思うけれど、2000年前後の京都ではこれが現実だった。
普通のパンさえ全くというほど売れない無名の店で売れるわけがないとわかっていながらなぜ、ぼくはパン・ド・カンパーニュ・ルヴァンを作り続けたのか。
ビゴさんから励まされたということもあるし、作り始めると種継ぎがあるから止めるに止められないといったこともある。
でも、ぼくにこの売れないパンを作り続けるよう突き動かせた一番の理由は、これだった。

いつかシモンさんがうちの店に来るかもしれない。もし来られたときに、これがないと "一矢報いることができない" から

つづく


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?