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孤独を感じる時、苦しいとか、嬉しいとか。

SSHが安定してつながらないのでこの時間を利用して書こうと思う。

孤独と向き合うのが難しいと感じる時がある。人とそこまでつながりたいと思ってないのに。そういう時、無理につながろうとするとかえって孤独を感じることもよくあることで。
って考えてるとその孤独って向き合うことが苦しいということなのか。独りで何かに満たされて何かしら安心している孤独もある。そういう時はじっくり孤独を味わえば良い。そういう時は孤独と言う言葉が相応しくないのかと思うところもある。孤独という言葉はどこか物悲しい響きがある。孤独で充実した時間、って少し矛盾というか違和感をぼんやり感じる。ただすごく違和感でもない。孤独でいることって社会的にはよくないこと、友達は多い方がいい、一人では何もできないからね、多くの人と同じの方が良い、そんな思考がめぐりだすと同調圧力みたいなものを感じて息苦しくなる。そんなふうに思考が坂を転がり始めると、一人ってなんて心地よいのだと思うこともある。逆に、自分は自分、他人は他人、人と違っていいんだよ、自分の道を歩けば良いのだ、何を迷っている、我が道を行け、なんていう同調圧力もある。結局は、自我を持てアイデンティティを持てという社会的な考え方への同化を求める空気。個性も他人に認められなければ個性として認められないとか。

こういう感覚は双極人の感覚に近しいのかもしれない。行ったり来たりの中でみんな生きている。意外とどちらかに振り切ってしまうと生きやすいのかもしれない。SNSなんかでキラキラ表現している人たちはそういうことなのかもしれない。でも、影では、見えないところでは苦労してるんですよなんて言いながら。

そんな二極相反する思考の世界の中で自分がどこに立つのか”決め”ないといけない。家族や学校、仕事人として社会性の中で生きていると自然と見つかっていくものなのかもしれない。これでいいか、と思えてある程度満足、だいたい真っ直ぐ歩けるくらいになればよしとしようということ。

少し脱線してきました。孤独という言葉のイメージから、その必ず人のそばにいるであろう孤独という状態に対する向き合い方から、自分の選ぶ立場、歩き方〜生き方を考えてみたいと思いました。

前提は、誰もが違う人間であり、性質を持っているということ。誰かと同じにはならない。だいたい同じに見える社会の中で。穏やかに少しドキドキしながら生きていきたい。実は、誰かが喜んでくれると嬉しい。そんな風に生きていきたいなと思った時に、孤独な時間をできるだけ大切にしてみたいと思う。孤独な時くらい迷わずに自分を信じている時間にしたい。孤独じゃない時間にはその時に考えたことを誰かに伝えてみたい。そしたら迷うかもしれない。その迷いは不安を持ってくるかもしれないし、嬉しくてどちらも選べないかもしれない。そんな繰り返しで日々がやってくると面白いかもしれない。

そろそろ、SSHつながるかな。。今日もコードを書いて本を読む。孤独な時間の過ごし方。これを書いている目の前にいる家族に自分の孤独の時間のことを少し伝えてみよう。どんな反応が帰ってくるかな?不安と期待が入り混じっている。苦しくなる時も嬉しくなる時もあるからね。

おわり。

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