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思い出ではなく、思われ出!?

こんな単語ありませんが….

「そんな小さい時のこと、よく覚えてるね〜。ふしぎー」とよく姉や母から驚かれます。
でも、流石に赤ちゃんの頃のことは、無理。
そこは4つ違いの姉と母から折に触れ、いろんなエピソードを聞かせてもらたっり写真を見ながら想像したりしています。これがタイトルの「思い出ならぬ思われ出」

北の湖って覚えてますか?

強すぎるということと愛嬌があんまりないことで大横綱であるにもかかわらず、「可愛げがない」なんて言う人もいた昭和の大横綱北の湖関。
私の赤ちゃん時代は、この北の湖関のミニチュア版といっても良いほど、まるまるとしていました。ただ全然違うのは「いつもニコニコ機嫌が良かった」ことだそうです。

特技

頭を軸にして、小さな小さなかかとで畳を蹴り、クルクルとよく回っていたそうです。なので後頭部の産毛は擦り切れていて、姉は「なんか可哀想だった」と。
でも、本人はそれが楽しかったみたいです。
また、手のひらや足の指がいつもしっとりしてたらしく、ベビーベッドの柵を足の指で挟み、よじ登っては越えようとして頭から落ちることがあったらしく、姉がよく見守っていてくれて母に「お母さん、やっこちゃんがまた!」と教える役だったと。私が重すぎてとても姉の力ではどうしようもないので、急いで母に伝えたそうです。

母なればこそ

産毛が薄く、丸々として腕にも足にもいくつもくびれがあり、いつもニコニコしてた私はよく声をかけられたそうですが、「あら〜元気そうな….」で、女の子か男の子か見分けがつかない。ベビー服は母があんまりピンクや赤を好まなかったし。それで少ない前髪(?)をなんとかかんとか可愛いヘアピンで横分けして、
「女の子です」の印をつけてくました。柔らかいおでこを傷つけないようにそお〜っとするのは一苦労だったそうです。優しい母心に感謝….

同じように食べたら…..

よく食べ、よく飲みすくすく育ち、大人には口に合わない離乳食もパクパク食べてた私。ある時父の友人が私がおうどんをツルツルと美味しそうに食べていたのを見て「すごいな〜うちのは男の子でお前のとこより早く生まれたけど、こんなふうには….」
後日その方から「うちのにも同じように食べさせたら、下痢したよ」と。
父は誇らしかったそうです。

体がただビヨ〜ン

姉はよく私のお世話をしてくれました。それは当時の写真が物語っています。
そんな姉がしたくてもできなかったこと。それは私を抱っこすること。
重たいわたしは後ろから姉が抱えようとしても、ただ体が伸びるだけで、小さな足は畳についたまま。何回トライしてもできなかったそうです。
体が伸びたりお座りしたりの繰り返しを、私も泣くこともなくかえって遊んでもらってると思ってたのかもしれませんね。

2年間の無言時代

いつも姉や母と一緒で、食欲旺盛でニコニコとご機嫌だった赤ちゃん時代。
でも、不思議なことに「言葉」はとても遅かったそうです。
というのも私のことは、いつもそばにいた姉が母に代弁していたし、駄々をこねたりする子供でもなかったので、なーんにも言う必要が無かったからと姉も母も納得してます。今は。
当時の母は当然心配して、先生に相談したそうですが「大丈夫!今に困るくらいに話すようになるさ」と笑っていたそうです。ーその通り

感謝

生まれたばかりの私を抱いた母の側には、4歳の姉がまだ目を閉じてる妹を見てます。写真に写ったその眼差しはもう「お姉ちゃんの眼」になっていました。
出産時は母に大変苦痛を与えてしまいましたが、その後の子育てでは夜泣きもしないし、食欲はあるし何にも苦労はなかったそうです。重さ以外は。
こればかりは増える一方で、近所のおばちゃんがよく抱っこしてる母を見かねて
「まぁお母さんより太い腕をして。さぁ、ここで思いっきり遊びない」と、私がハイハイできるようにご自宅の一番広い部屋を片付けて、母を休ませてくれたそうです。
母と姉はもちろん、先生やおばちゃん。今更ながら感謝しかありません。
心からありがとう….





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