中村前編

線でマンガを読む『中村明日美子 前編』

フランスの映画監督、ジェルメール・デュラックは、「絵画の素材が色であり、音楽の素材が音であるなら、映画の素材は運動である」と述べた。それに倣えば、マンガの素材は<線>だ。そして面白いことに、マンガにおいては、人物や物体、風景などといった、描かれるもの(絵)と、それらを異なる時間、空間の中に配置するもの(コマ)が、ともに線で成り立っている。画面に描かれている正方形の線が、「絵」なのか、あるいは「コマ」なのかを決定するのは、書き手と読み手の暗黙の了解に基づく。

たとえば上記のようなマンガがあったとして、人物の周りを取り囲んでいる四角の線は、いったいなんだろうか? 私達は、なにも考えることなくそれらを「コマ」と瞬時に判断するが、「この人物たちの背後にあるものは巨大な豆腐である」という可能性について、なぜ考えないのだろうか? これをコマか、豆腐かをいちいち判断しなくてはいけないとなると、大変だ。私たちが無意識に使いこなしているマンガの文法というのは、自分たちが考えている以上に複雑なコンテクストをもっている。

それはさておき、当コラムにて前回前々回と、手塚治虫が読みやすく、ドラマチックなコマ割りを整備し、後進のマンガ家がそれを継承発達させてきた様子をみてきた。今回は、さら新しい世代のマンガ家の作品を紹介したい。中村明日美子の初期の作品、『コペルニクスの呼吸』である。絵とコマの関係性について、あらたな展開を見出すことになるだろう。

舞台は70年代初頭のパリ。とあるサーカス団についてのお話だ。主人公はピエロを務める青年、トリノス。彼はサーカス団のお荷物扱い。皿洗いや掃除なども押しつけられ、カーストの最下層にいる。じつはトリノスはもともとはピエロではなかった。サーカスの花形、飛行ブランコを、弟とふたりで担当していたのだ。しかし、公演中の事故で弟を亡くしてから、飛べなくなった。それで今の境遇に身をやつしているのである。

(『コペルニクスの呼吸』中村明日美子)

さて、この集団、サーカスという表の顔の裏に、もうひとつの仕事をもっている。サーカスの団員は、娼婦、あるいは男娼として、客に体を売っているのである。観客のなかには、今晩床をともにする、団員の品定めに来ている者が少なからず存在する。このサーカス団の経営は、おもにこの売春行為によって成り立っているのだ。物語は、サーカスの常連で、若い男子に目がない日本の外交官が、冴えないピエロであるトリノスを買うところからスタートする。

(『コペルニクスの呼吸』中村明日美子)

映画でいうと、ルキノ・ヴィスコンティ作品のような退廃的なストーリーに、クールな描線がみごとにマッチして、妖艶な雰囲気を醸している。さらに、中村は卓越した心理描写の使い手である。以下の図版をご覧いただきたい。

(『コペルニクスの呼吸』中村明日美子)

トリノスが弟の死の瞬間を思い出して恐慌におちいるシーン。2つのコマによって構成されている。上のコマはピエロの扮装をしているトリノスの表情を俯瞰で描いている。魚眼レンズの歪みを意識しており、その顔の描線が下方に向かって圧縮されてゆく。これは、フラッシュバックによって、抑圧していた記憶が弟の死の瞬間へと収斂してゆく様子を示す

そして、1コマ目と2コマ目の結節点で感情が臨界を迎え、堰を切ったように噴出する。こんどはロー・アングルから、広角レンズを用いてアオリ気味に撮ったような画面だ。彼の背後にあるサーカスのテントの縞模様が下方へむけてどんどん広がってゆくが、これはトリノスの心が決壊し、あふれ出すさまを形象している

このほとんどセリフのない2つのコマの組み合わせで、トリノスが弟の死にたいして深刻なトラウマを抱えていることを実感させられる。中村の非凡さが伺い知れるページだ。後編につづく

write by 鰯崎 友

※本コラム中の図版は著作権法第三十二条第一項によって認められた範囲での引用である。


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