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線でマンガを読む『大橋裕之』

「ナマケモノ」という生き物がいる。人間によってなんとも侮辱的な名前をつけられた動物だ。確かに、ふだんは木にぶら下がって怠けているように見えないこともない。しかし、彼にだって、本気を出すときがあるのだ。繁殖期を迎えると、オスは自分の島を出て、海を泳いでメスを探しに行くのである。ギャップというやつの効果は絶大で、木の枝にぶらぶらしているナマケモノが、このときばかりはと、命がけで泳ぐ姿に心を打たれる。

大橋裕之というマンガ家がいる。彼の作品では、貧乏な若者や、スクールカーストの真ん中より下にいる学生や、ちょっと間の抜けた不良などが主人公であることが多い。大橋は、彼らの華やかでない日常の失敗談などを鋭く観察して笑いにする。あまりぱっとしない人物がメインキャラで、かつ大橋の絵もかなりゆるい。例えば彼の『音楽』という作品の冒頭。

(『音楽』大橋裕之)

フニャッとした建物は、高校だ。「リ~ン ゴ~ン」と気の抜けたベルが鳴っている。トイレでタバコを吸い、あてどもなく廊下を歩くスキンヘッドの彼が、主人公、研二である。おわかりのように、彼は不良だ。他校の生徒とのケンカに明け暮れている。でも、マンネリでやる気が起きないようで、最近はいつもダラダラしている。そんな彼のもとに、不良仲間の太田と朝倉がやってくる。ケンカをしにいくので加勢してほしいというのだ。しかし研二は、ふたりに向かって、唐突に口走る。

「バンドやらねえか?」

(『音楽』大橋裕之)

あまりに突拍子もないことを言われた太田と朝倉は、頭がフリーズして視線が定まらなくなってしまう。この放心した表情に、なんとも言えない味があって、いい。研二も研二で、猛烈に音楽活動がやりたくて言っているわけではない。研二はそれまで音楽に興味がなかったのだ。その彼がなぜバンドを始めようと思ったかは、謎だ。しかし、太田も朝倉も、

「ふむ やってみるか ヒマだし」

と言って、ゆるーいかんじで研二に賛同する。ストーリーもゆるけりゃ絵柄もゆるい。しかし、そのゆるさにも、工夫がある。キャラの目だ。「∪」と「∩」の形をしたふたつの線をラフに重ね合わせ、そのなかに、ちょこんと黒目が入っている。この目の描き方が独特。ためしに、目をごくスタンダードなものに変えてみよう。

大橋のオリジナルの目から、「∪」を取ってみたら、かなり印象が変わった。なんというか、平板で面白みのないものになってしまう。元々の絵には、なにを考えているのか読めない飄々とした味がある。目はマンガ家が非常に重要視するパーツで、瞳に反射する光を細やかに表現したり、まつげやシワなどまで、非常に繊細な描写をおこなう人もいる。いっぽう大橋の絵は、いっけん何の工夫もないように見える。しかし、いたってシンプルな線で、印象的な表情をつくりあげてしまう。少ない具材で、巧みに味付けされた料理みたいなイメージ。それがこの作家のセンスだ。

さらにストーリーを追っていこう。バンドを始めると言い出した研二だったが、じつは三人のなかでも楽器に関する知識にいちばん乏しい。後輩の部屋から楽器をパクってくるのだが、こんな調子だ。

(『音楽』大橋裕之)

研二がギターだと思ってパクってきたのはふたつともベースだった。あとはドラムが一式。しかし、三人は、持ち前のゆるさで取りあえず演奏をやってみる。

(『音楽』大橋裕之)

ベースふたつとドラムでの演奏なので、とうぜん「ボボボボボボ」という音が出るだけ。しかし、演奏を終えた彼らは、こう思う。

「今 すんげえ気持ちよかった」

研二たちはさっそく、バンドを「古武術」と命名する。朝倉の親戚のおじさんが、古武術をやっており、ただそれだけの理由で決まった名前だ。そんなかんじで、相変わらずのゆるさを保ちながら、徐々に音楽にのめり込んでゆく三人。そうこうしているうちに、なぜかその音楽性を高く評価する人間が現われはじめる

(『音楽』大橋裕之)

そして、「古武術」は町内のイベントである「坂本町ロックフェスティバル」への参加を決意するのだった。このあたりまで読み進めて気づいたのだが、彼ら「古武術」の躍進がなんとも小気味よくて痛快なのだ。わくわくする。なんだかゆるいマンガだなあ、と思って読みはじめたはずなのに…キツネにつままれたような気分だ。物語はここからさらに加速する。フェスへの参加を妨害しようとする他校の不良生徒。そして、仲間割れの危機。恋。障壁を乗り越えた「古武術」がフェスの舞台で披露した音楽とは…

はじめはゆるーく始まった物語が、ほんとうはど真ん中、王道の青春ものだった。いや、最後までゆるいのに、熱いのだ大橋はストーリーテリングが上手い。ゆるーい話と見せかけて、たくみに読者を誘導してゆく。普通の絵でやってもイイ話なのだが、このゆるい絵柄でやられると、感動がひとしお大きい。ギャップの効果が最高に効いてくる。命をかけて泳ぐナマケモノの姿と同じだ。「ふむ やってみるか ヒマだし」といってはじまったバンドが、ロックの魂にまで達する。クライマックスでは不覚にも涙が出そうになった。

(『音楽』大橋裕之)

読み始めたときにはまさかこんな気持ちになるとは思わなかった。体感してほしい。彼らの音楽を。叫びを。

※本コラム中の図版は著作権法第三十二条第一項によって認められた範囲での引用である。


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