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素読にまつわるエトセトラ【其の二】

再び『人間の建設』より…


数学者・岡潔

文芸評論家・小林秀雄

による対談をまとめた『人間の建設』については、

【名著紹介】として以前にまとめました。m(_ _)m

(やべぇ…【其の一】で止まってんじゃん……)

(【其の二】は下書きとしてはあるんだけども……)



終始高度な内容が、文系理系の壁を超えてあらゆる分野に及ぶ対談ですが、


様々な話題の最後を飾った話こそが、


何を隠そう「素読」に纏わるお話なのでした!!(これまた痛快!)


少し長めの引用にはなりますが、ご覧くださいませ。m(_ _)m


〈小林秀雄〉

暗記するだけで意味がわからなければ、無意味なことだと言うが、それでは「論語」の意味とはなんでしょう。
それは人により年齢により、さまざまな意味にとれるものでしょう。一生かかったってわからない意味さえ含んでいるかも知れない。
それなら意味を教えることは、実に曖昧な教育だとわかるでしょう。

「論語」はまずなにをおいても、「万葉」の歌と同じように意味を孕んだ「すがた」なのです。
古典はみんな動かせない「すがた」です。その「すがた」に親しませるという大事なことを素読教育が果たしたと考えればよい。
「すがた」には親しませるということが出来るだけで、「すがた」を理解させることは出来ない。
とすれば、「すがた」教育の方法は、素読的方法以外には理論上ないはずなのです。

国語伝統というものは一つの「すがた」だということは、文学者には常識です。この常識の内容は愛情なのです。
ところが国語審議会の精神は、その名がいかにもよく象徴しているように、国語を審議しようという心構えなのです。そこに食いちがいがある。
愛情を持たずに文化を審議するのは、悪い風潮だと思います。愛情には理性が持てるが、理性には愛情は行使できない。そういうものではないでしょうか。

『人間の建設』「素読教育の必要」より

大事なところなのでもう一度繰り返しますが、

国語伝統というものは一つの「すがた」だということは、文学者には常識です。

『人間の建設』「素読教育の必要」より小林秀雄の言葉


これは一体どういうことでしょうか?


「すがた」と対置されていたのは「意味」です。

「すがた」には「親しむ」ことしかできない。

「意味」は「理解する」ものである。


たとえば、

「光陰矢の如し」

という言葉がありますよね。

その意味は「月日のたつのが早いこと」とあります。


「月日がたつのは早いねぇ〜」

と話すのと、

「『光陰矢の如し』だねぇ〜」

と話すのとでは、印象が明らかに違いますよね。


「光陰矢の如し」には、流れるような勢いがあり、

漢文調の言葉遣いには雄々しさ=力強さを感じますね。


これは「意味」ではなく「すがた」の違いから生まれるものです。


「姿は似せ難く、意は似せ易し」


ふたたび、小林秀雄の文章からの引用になりますが、

『考えるヒント』という代表的な名著がございます。


その中に「言葉」と題した章があり、

国学者・本居宣長が残した言葉を頼りに考察が展開されます。

言葉こそ第一なのだ、意は二の次である
(中略)
意には姿がない
。意を知るのに、似る似ぬのわきまえは無用ではないか。意こそ口真似の出来るものだ。言葉に宿ったこの意という性質こそ、言葉の実用上の便利、特に知識の具としての万能の由来するものだ。

小林秀雄『考えるヒント』「言葉」より

「言葉が第一、意は二の次」

「意には姿がない」

ということで、この文脈では「言葉=姿」であると読み取れますね。


「意こそ口真似の出来るもの」

「姿は似せ難し」と対比して論じられているのも読み取れます。


続けて引用……

「歌は言辞の道なり」
歌は言葉の働きの根本の法則をおのずから明かしている。
歌は情を述べるもので、先ず情があって詞があるには違いないが、詞は求めて得るもの、情は求めずとも自然にあるもの。
歌の発生を考えてみると、どんなに素朴な情が、どんなに素朴な詞に、おのずから至るように見えようとも、それはただ自然の事の成り行きではない。
(中略)
自然は文を求めはしない。言って文あるのが、思うところを、ととのえるのが歌だ。思うところをそのまま言うのは、歌ではない、ただの言葉だ。

歌は無論「和歌」のことで、

「和歌」は「情」を言葉(詞)にするもの

上で述べてきた「意味」はここでは「情」に当たり、

「姿」は和歌においては「表現」と言っていいかもしれません。


詩歌を詠み出す際には、

あれこれを工夫をこらして”ピッタリ表現”を探します。


ちなみに、

「俳聖」松尾芭蕉のかの有名な

静かさや岩にしみ入る蝉の声

という俳句がありますが、これも初稿段階では

寂しさや岩にしみ込む蝉の声

だったといいます。


そこから表現を工夫(推敲)して、にピッタリ合う形を探したわけですね!


英語教育に通ずるヒントは「素読」にあり?


「日本人は英語が苦手だ」

とよく言われますよね。

果たして、それは本当なのでしょうか??


日本人が英語と本格的に出会ったのは、

もちろん「ペリー来航」に前後した幕末〜明治の時代です。


当時の日本人は、福沢諭吉伊藤博文新渡戸稲造などが代表的ですが、

めちゃくちゃ英語(のみならず何ヶ国語も)が堪能だった!

という歴史的な事実をご存知でしょうか?


主に戦後教育から、英語の学習法自体がガラリと変わり、

「国際競争」だとか「グローバル」だとか言っておきながら、

肝心要の英語の習得については、遅れをとってしまっているのが現状。


素読的教育法は、英語習得はもちろんのこと、

「言語」の習得そのもののプロセスを再現したものです。

先ほどの続きに当たる部分から再度引用します…。m(_ _)m

誰が悲しみを先ず理解してから泣くだろう。先ず動作としての言葉が現れたのである。動作は各人に固有なものであり、似せ難い絶対的な姿を持っている。生活するとは、人々がこの似せ難い動作を、知らず識らずのうちに、限りなく繰り返すことだ。似せ難い動作を、自ら似せ、人とも互いに似せ合おうとする努力を、知らず識らずのうちに幾度となく繰り返す事だ。その結果、そこから似せ易い意が派生するに至った。これは極めて考え易い道理だ。実際、子供はそういう経験から言葉を得ている。言葉に習熟して了った大人が、この事実に迂闊になるだけだ。大人が外国語を学ぼうとして、なかなかこれを身につける事が出来ないのは、意から言葉に達しようとするからだ。言葉は先ず似せ易い意として映じているからだ。言うまでもなく、子供の方法は逆である。英語とは見た事も聞いた事もない英国人の動作である。これに近付く為には、これに似せた動作を自ら行うより他はない。まさしく習熟する唯一のやり方である。

小林秀雄『考えるヒント』「言葉」より

実は、江戸時代の伝統教育の科学的分析を研究発表された、

医学生理学の権威でもあられたある大学名誉教授にお会いした時にも、


間接的に「宿題」としていただいたテーマこそが、

「素読的教育法」と「日本の英語教育」の関係性についてでした。


小林秀雄のこの論説は、一つの答えあるいは「ヒント」を示していますね。


「シャドーイング」でセンター英語満点?


個人的な経験を言えば、

高3で受験勉強を始めた時から浪人時代まで毎日最低1時間は打ち込んだ

「シャドーイング」

という学習法を思い出します。


ネイティブの話す英語を聴きながら、

そのまま「シャドー」即ち「影」になったつもりで追いつこうと発音する。


単純作業の中にゲーム的な楽しみがあったのを思い出します。


中2までは学習塾には行かずに大手の英会話塾に通っていたものでして、

一個一個の細かな発音については慣れ親しんでいた経緯はあります。

(LとRの発音の違いとか、はっきりしない母音とかですね!)


言葉はそもそも「話す」「聴く」ことが起点にあるもの。

「読む」「書く」は後の話です。

この順番を逆にした英語教育が罷り通って来ましたよね。


「意味」として理解する前に「姿」を「似せる」プロセスが重要。

要は口や舌の筋肉を鍛え、「音の響き」に慣れ親しむような、

極めて身体的な「模倣と習熟」が必要で、

そうすると「意味」は後からついてくるような感じ。


具体的には、

「日本語⇨英語」と前から切って少しずつ変換しながら読んでいたのが、

「英語」を「英語」のまま「イメージ」として理解できるようになり、

逐語訳(ちくごやく)的なプロセスを省略して読むことが可能になりました!

(例えば"How are you?"をわざわざ「お元気ですか?」と訳してから答えないのと一緒ですね…笑)


すると、センター試験(当時)の英語は20〜30分も時間を余らせて、

過去問では200点満点を取ったこともありました。

(本番は文法か発音アクセントでしくじった記憶が…笑)



さて今回も、

短くまとめようとしてもついつい長くなってしまったのと、

最後は個人的なエピソード(とプチ自慢?笑)になってしまいましたが、


「素読」をテーマとした考察は奥深いので、まだまだ続きます。。

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