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[短編小説]絶望薔薇好き令嬢は凍らせ公爵令息に有り余る希望を贈られて溺愛されています

なろう系悪役令嬢と令息。溺愛展開。ざまあ軽く有り。


「絶っ対に、許しませんわ、ルーカス・オルコット……!」

アメリア・ローズ・マクファーソンはギリギリと薄水色のドレスの膝元、ちょうどレースが重ねられた部分を握り締める。しわになってしまうと分かっていたが、そうせずにはいられなかった。

本日、アメリアは婚約者として初めてお相手の令息にお目通りする。そのために、マクファーソン家で用意できる最高級の装いで彼女は馬車に乗っている。本日会う相手はゾクラフ公爵家、王家の次の高い地位に君臨している方々なのだ。

平時なら、彼女はこの銀糸で細かい薔薇の刺繍が縫い込まれた見事なドレスの手触りにご機嫌に満足したはずだ。まだ見ぬ婚約者のことを思いその胸を期待にときめかせて、穏やかに微笑んでいられただろう。

しかし、そうはいかなかった。顔をしかめ、少しでも気が晴れたらと窓の外を見る。が、そこには薄ら寒い荒野が広がるばかり。王都と比べるとずっと気温も低く、ズンと下半身から底冷えする感覚に思わず自分の二の腕をさする。

「このゾクラフ領の気候だと、薔薇は上手く育たないかもしれないわね……いえ、わたくし、諦めるつもりは決してないのだけれど!でも、これは設備投資が大変そうだわ」

決してささやかな出資とはとても言えない嫁のわがままとも言える希望を、ゾクラフ家の当主と跡取り息子は叶えてくれるものだろうか。

アメリアは目を伏せて、くじけそうな心持ちでカーテンを閉めた。いくらか乱暴な手つきに年嵩の侍女は少し咎める顔になる。けれども、あえて何も言わない。そんな令嬢らしくない態度にならざるを得ない、その理由を侍女も理解してくれている。「お痛わしい」と言いたげなその視線に、かえってアメリアの胸の痛みは増大した。

つい二週間程前、アメリアは婚約者だったオルコット伯爵家長男のルーカスに裏切られ、一方的に婚約破棄を告げられた。ルーカスの横には小動物のようなつぶらな瞳の可愛らしい少女がいて、アメリアはこれ見よがしにふたりがベタベタする様を見せつけられた。

しかしそんなことは彼女にとっては些細なことであった。確かに傷付かないということはなかったが、それよりも更に、もっと悲しくさせられることがあった。

浮気相手の少女の髪に飾られていた薔薇は、1ヶ月前にマクファーソン家から盗まれた、あとは王家の方々へのお披露目を控えるばかりだった新種に間違いなかった。

アメリアにとっては、何よりこのことが一番辛いことだった。マクファーソン家は代々薔薇を育てることを一番の産業としていて、そのミドルネームに「ローズ」を冠することを王家に認められている、唯一の貴族だ。

婚約者であるのをいいことに、ルーカスは新種の栽培をしているマクファーソン家の中庭の奥の奥の区画まで入り込んだ。そして門外不出のはずの苗を盗み出し、あろうことか、自分が新たに作り出した品種だとして早々に国に登録申請した。そして浮気相手の髪をその薔薇で飾ってアメリアに見せつけたのだ。夜会という他の貴族がいる前で大々的に。

ルーカスは大げさな身振り手振りで「これまでアメリアがいかに自分に対して横暴な口調や態度で接してきたか」を語り、「この傍らの少女に執拗に嫌がらせをした」などと全くの事実無根なことを吹聴した。早口で捲し立てられるその間も、アメリアはただずっと薔薇の輪郭の緋色だけを見ていた。

薄い黄色のグラデーションの花弁、その輪郭に赤身の強いオレンジ色が鮮やかに映えるその花。アメリアが自ら手を掛け、庭師たちと水はけや日当たり、追肥や刈り込みのタイミングなどを日々相談しながら作り上げた肝いりの新種だった。

初めて両親から完全に任された、彼女の企画・監修で作られた大切な花。家名の誇りも彼女自身の努力も庭師たちの尽力も全て踏みにじる、そんなことを平気でする男が自分の婚約者だったことが何より辛かった。

わたくしがどれほど薔薇を愛しているか、ずっと近くで見ていたくせに、知っていたくせに、ルーカスは平気で裏切った……。

マクファーソン家が納得できるはずはなく、オルコット家とは対立状態になり、やがて婚約破棄が決まった。するとすぐにアメリアには別の縁談が持ち込まれた。両親は傷心の娘にこれ以上負担を掛けたくないと乗り気ではなかったが、これは王命である、と伝えられると逆らえるはずもない。アメリア自身も、もうどうでもいいと投げやりな気分だった。もはやその目で薔薇を見ること自体が今は重かった。

ここでどんなに嫌がったとしても、貴族である限りは、いずれどこかに政略結婚で嫁ぐことになるのだ。ならば素直に王命に従おう、とアメリアは考えた。

嫁ぎ先は国の最北、国境近くにあるゾクラフ公爵家。王家の親戚筋ということもあり強大な魔力をその血に宿す一族で、魔法剣を使う武家の名門でもある。先々代が先の隣国との戦で大きな武勲を立てたということで、国境沿いの広大な土地を守り治めている大権力者だ。国王も魔法軍事方面では大きな信を置いており、現当主はベルナルド・フォン・ゾクラフ。国軍指揮官の任を授かっている。アメリア自身は数度の夜会で遠くから姿を見ただけで話したことさえもないが、軍人特有の鋭い視線や体格の良さ・無駄のない指揮ぶりやその口調にどうにも気圧されてしまい、並みの人間ではろくに近づけない。父ほどの年齢の男性陣さえ一度深呼吸してから恐々と話しかける。そういう印象の人だった。

その家の長男令息、ウィリアム・フォン・ゾクラフに、アメリアは嫁ぐ予定だ。

そして父親と同じかそれ以上に、ウィリアムという人は恐ろしくてとても冷徹な男だと聞いた。アメリアはこの息子の方はまだ直接見たことはないため、噂でしか知らない。銀の髪に青みがかったグレーの瞳をしている、という見た目の情報くらいしかない。ただ、近づくと「確実にその人だと分かる」らしい。

よくマクファーソン家の薔薇を買ってくれる令嬢によると、何でも魔力が強すぎるあまり、冷気となって彼のその身にまとわりついているそうだ。近づいただけで当てられて失神してしまう者さえいるとか。人嫌いで幼い頃に魔力暴走を起こして乳母を殺しかけたとか。近衛騎士団に属しており普段は王太子殿下の側にいるそうだが、意外とフレンドリーな王太子殿下なのにその斜め後方からとんでもない殺気を飛ばして威圧してくるとか。最低限の社交はするが、女性への当たりだけはすこぶる厳しく、ある日気位が高い令嬢に「それ以上近づくな」と言い放って魔法で作った氷柱で威嚇し、場が荒れに荒れたそうだ。

口元を扇で隠しながら声をひそめ、「その女性に対しての絶対零度まで冷えきった視線の、恐ろしいこと恐ろしいこと……。王家の方と慣れた近衛の者以外は誰も話しかけられませんのよ」などとその令嬢は語っていた。

わたくしはこの土地で、そんな方相手にやっていけるのかしら……。

そのように不安になるが、やはりアメリア個人に逆らえるはずもなかった。震えているのは、道の悪さによる馬車の振動のせいか、北の土地特有の寒さか、それともまだ見ぬ高位貴族・ゾクラフ公爵家への恐怖か。アメリアはその身を縮めるようにして耐える。やがて目指す領地に馬車は入った。大きな街に入ったと悟ったのは馬車の振動がぐっと小さくなったからだ。荒れ地ではなく、大量の軍馬や馬車を走らせることに向いた整備された道。やがて信頼が置ける侍女や護衛と共に、アメリアはゾクラフ家の屋敷がある街に到着した、らしかった。そろり、と再びカーテンの隙間から外を見る。

「ひえっ、すごいわね、なんて大きな門……!」
「兵士もあんなに。国防の要となると、ここまで頑強なのですね……」

思わず侍女と手を取り合って叫んでしまうほどに、かつて見たこともない大きな石造りの城門がアメリアのその目に飛び込んできた。国境の守りを固めるための門はひどく物々しくそびえていて、威圧感で押し潰されそうになる。幾人もの甲冑を身に纏った兵士が規則正しく整列して立ち、アメリアが乗る馬車を迎えていた。城下町に入る前に厳しく検問が敷かれているらしい。

こ、これはちょっと、無理かもしれませんわ……。

とても花がどうとか言っていられる状況ではなさそうな街で、再度アメリアは目を伏せた。

ふと思い出されるのは、あの日ひとりぼっちで佇んでいた少年のこと。それはアメリアがまだ7歳の頃に開催された王家主催の貴族の子供たちの集まりで、未来のために年若い王子との交流を深めさせようという機会だった。

みんながそれぞれ楽しそうにおしゃべりに興じている中、ひとり遠巻きにされて寂しさに涙ぐんでいる少年がいた。アメリアは彼に話しかけて少しの時間交流したのだが、その時にお近づきの印としてちょうど手に持っていたブーケから一輪の薔薇を渡した。唐突に目の前に差し出された花に少年はびっくりしていた。彼がその目を見開いた瞬間、ぽろりと涙の粒が両目の端からこぼれ落ちるさまを見て、「我が家の薔薇を目にした人には幸せになって欲しいのに」とアメリアは強く思ったのだ。アメリアはその気持ちを素直に少年に言い切った。

わたくし、我が家の薔薇を受け取って下さった方には笑って欲しいですわ!だって、そのために苦労して育てているのですもの!と。

ああ、わたくし、あんなにあの少年の前で誓ったのに。素晴らしい薔薇を生み出してこの国、いえ世界の国の人々に笑顔を届けたい。それがわたくしの一生の夢だったのに。単に目の前の少年の涙を止めるためだけに口走ったのではなく、わたくし自身の心から生まれた、キラキラした夢。今後は全て潰えてしまうかもしれないのだわ……。

ゾクラフ家の一存次第で暗いかもしれない自らの未来を思うと、アメリアはつくづく元婚約者が恨めしい。そもそも婚約なんてしていなければ、今頃実家で楽しく薔薇の栽培に邁進できていただろう。行き遅れ令嬢と評されながらも死ぬまで実家にしがみついた方が、薔薇から離れずに済んだのかもしれない。

「本当に、ルーカスには、完全にしてやられましたわ……けれど、わたくしの落ち度が招いたこと」

ずっと黙っていると涙が溢れそうになるため、アメリアはあえて口にしてみる。侍女はまたお痛わしい、と言いたげに眉を寄せた。

「……アメリアお嬢様、もうあの無礼な方のことなどお忘れ下さい。これから新しい婚約者様とお会いするのですから」

慰めるように侍女が背中を撫でて、首を振る。けれども、彼女は決して忘却という責任放棄を良しとはしなかった。

「いいえ……絶対に忘れないわ。それにね、わたくしは全て納得して嫁ぐと決めたのよ」

これが虚勢だとしても、とアメリアはあえて顔を上げて気を張る。崩れ落ちないためにかえって強く振る舞うしかなかった。

「これでいいの。心配しないで、って家の庭師のみんなにも伝えてちょうだい。いいわね?」
「承知、いたしました。お嬢様がそうおっしゃるのなら……」

アメリアは頑張ったが、やはりひきつり笑いになってしまった。侍女はまだ何か言いたげにしているが、以後は言葉を飲み込んで、少し乱れてしまったアメリアの漆黒の髪を整え始める。優しく慮る手指の感触に身を任せて彼女は目を閉じた。

そういえば、ルーカスはこのまっすぐ過ぎる漆黒の直毛と瞳の青緑色も暗すぎて毒々しいって言っていたわね。浮気相手のあの子はカールがふわふわと柔らかそうな綺麗な金髪に、ヘーゼルブラウンの瞳だったわ。

ルーカスに対しての未練は全くないが、アメリアは自分の容姿も性格もこの国の大多数の令息たちにはあまり好かれないらしい、とは察していた。その黒髪はまさしくからすの濡れ羽色。つり目に濃い青緑の瞳という組み合わせのおかげで目付きも鋭く見える。その上、普段庭師たちにキビキビと指示を飛ばすことが多いためか、令嬢にしては言葉の端々が強いのだ。

それでも、清楚に見えるように努力することも口調を穏やかにすることも特にしなかった。ルーカスには怠慢女だと言われてひどく憤慨したが、知ってて繕わなかったというのは確かなことだ。

お披露目と名付けを待つばかりだったあの花の未来を、自らの未熟さで潰してしまった。そのことは、どんなに後悔してもしきれない。でも、ルーカスなんかのために自分を変え耐えることは決してしたくなかった。仲を深める気持ちもなく、薔薇の世話にかまけて放置した。さして寄り添う心はなかったのに、いずれ結婚するのだしと気を抜いてしまった。どんな本性をしているのかを全く理解せぬままに。

あの新種については完全に任されていたわけだから、両親ではなくこのわたくしこそが全ての責を負うべきなのでしょう。せめて新たな婚姻で傷ついた家名を戻すべきだわ。ゾクラフ公爵家とのご縁なんて、本来マクファーソン伯爵家から望んで結べるものではない。この国では力が強い公爵家の婚姻には王家の意向が強く反映される。王家の望みだからこそ、今回に限り、成り上がりの伯爵家が由緒正しい公爵家と繋がれるのだろう。父のことを「たかが花程度で王家に取り入り地位を得た」とか「土まみれの農民男爵上がり」と見下す高位貴族もまだいる。

例え当主や夫に冷遇されるとしても、全てを甘んじて受ける。この土地で死ぬまで生きて、この家に求められるままにゾクラフ公爵夫人としての義務をしっかりと果たしていく。そして薔薇の苗をただひとつでも構わない、敷地の一角で育てることをお許し頂きたい。せめて実家との繋がりを示すものとして。未来がそうなるように可能な限り頑張ろう、とアメリアは誓い、強く覚悟した。彼女にとっては、それが貴族の娘として残された唯一の「今後できること」に思えた。

「到着したようです、お嬢様」

侍女に呼ばれ、アメリアは目を開ける。軽く身支度を整え終わると、やがてゆっくりと馬車の扉が開いた。外から差し出された手に、アメリアは自らの手を乗せる。

えーー違う。いつもの従者の方とは。家の人間ではない、男の人の手だわ。きっと、騎士の方ね。

感触の違いに、アメリアは息を飲む。指先に当たる相手の手のひらは、少し固い。長く剣を持ち続けた人特有の、それ。それにーーわずかな冷気。

気付いて一瞬ためらったアメリアの手を、相手がしっかりと握ってくる。腕の動きに誘われるままに馬車を降りた瞬間、陽に透けた銀の髪が眩しく視界に入った。

「ゾクラフ公爵家令息、ウィリアム様……」

思わず呟くと、確かに自分はそうだ、と応えるように青みのグレーの両眼がわずかに細められる。冷気がふわりとアメリアの頬を掠めた。ウィリアムの髪も揺れて、またキラキラと光を反射する。

「心よりお待ちしておりました。マクファーソン伯爵家令嬢、アメリア様」

返答があるとは思わず、アメリアは相手の顔を凝視する。もうすっかり大人の声だわ、それに、絶対に泣きはしないわね、などと考えながら。

ああ……わたくし、この方を知っているわ。11年前のあの日、王城のガーデンパーティーでひとりぼっちだった、泣き虫の男の子。あの子の色、そのままだもの。

なぜ。どうして。あの誓いが破れたこのタイミングで、会ってしまうのだろう……。あの日のことをすっかり忘れていれば、今こんなに苦しくはなかったかもしれないわ。あんなに絶対泣かないと誓ったはずなのに……。

うつむくとドレスの薄水色と銀の刺繍がにじみかけた視界に映る。それは目の前の男の色だ。彼の横に立つためのドレスだ。薄い水色の、と認識していたが、よく見るとグレーのチュール生地が幾重にも重なっている。青みのグレーと銀。

泣いたり悔しがったりするより先に、まずこのドレスの色で気づくべきだったのだ。ウィリアム・フォン・ゾクラフの見た目の特徴を聞いたその瞬間に脳内で過去の記憶としっかり結びつけるべきだった。これはあの少年の色と同じだと。

「こちらへ」

言われるがままにエスコートされ、アメリアは歩を進める。夢を失った身で隣に存在することは耐えきれず、顔を上げられない。しかしウィリアムの誘導は巧みだったようで、アメリア自身は決してつまずくこともなく、無事に目的地にたどり着けたようだった。ピタリとウィリアムが歩みを止めたので、アメリアも同じく立ち止まる。どうしたのだろう、案内されたのは本邸屋敷の応接室などではないようだ。違和感にアメリアが顔を上げかけたその時、ウィリアムは目の前のガラスの扉を開けた。ガラスの表面に射した日光に目が眩みそうになり、一瞬目線を背ける。アメリアにはそれが何か分かってしまったから、余計に直視することをためらった。

ここは温室だ。魔法で割れないようにと強化されたガラス製の。マクファーソン家が使っているものとほぼ同じ仕様のものだ。

「例え人を害するほどの有り余る魔力を持とうとも、未だ貴女が失ったものを完全に取り戻すことはできず、無力を感じています。ですが、せめてこちらを全て、貴女に」

ウィリアムのその声は、思いの外アメリアの耳と心に優しかった。この北の地の澄んだ空気に似合う、少し低いけれど、よく通る声色だった。

外気とは違い、温室の中は暖かい。適温。アメリアにとって、ではない。「その薔薇にとっての適温、そして適した湿度」。

品種は、7歳のあの時に髪に差し、ブーケにもして持っていたもの。そして彼に手渡したものと同じだ。真っ白だけど、光の加減でほんの少し青みがかっているようにも見えるそれは、未だ生み出すことが難しい「青の薔薇」への希望が込められている。作り出したアメリアの父、マクファーソン伯爵が「希望のかけら」と名付けた品種だ。

あの日、お父様が「今日の集まりにはこの品種がふさわしいだろう」と手ずから選んでブーケにして、お母様が髪にもつけて下さった。「この日の出会いが場に集められた王子と貴族の子供たちそれぞれにとって希望あるものとなるように」と。

ああ……薔薇だ。この温室丸ごと「希望のかけら」が咲き誇っている。一番の特徴であるその白の向こうに透けるような青み、特有の芳香の甘さ。

あの騒動以来、アメリアは久しぶりに見た。薔薇を……「希望のかけら」を。それはマクファーソンの領地にも当然咲いているものだが、ゾクラフ領で、となるとまた違った意味を持つ。

「増やした、のですか。あの時の、あれを」

ゾクラフ領で薔薇の栽培は難しい、気温が合わない、とほんのついさっきまで思っていた。他でもない、薔薇を専門にする家門の家の娘のアメリアが。しかもあの時ウィリアムに渡したのはたった一輪だけ。そこから、ここまで見事に咲き誇るまで、設備も含めてゾクラフ家はこの環境を整えたのだ。そもそも「希望のかけら」の青みをしっかりと出す育て方は難解なのだ。

「ええ。ちょうど差し木できる長さだ、さすがマクファーソン家だ、とうちの庭師が言っていました。季節も最適だったようで……ご両親はあの日渡したものが相手の家にもきちんと根付けるようにとご配慮下さったのでしょう?」

ウィリアムは涼しい顔で軽く言うが、それは一体どれほどの執念か。例えマクファーソン家が「そのように渡した」としても、それにしっかりと応えて「そのように育てた」家門はこれまでに存在しなかった。

普通は切り花として枯れるまで花瓶に飾り、そして廃棄。頑張ってドライフラワーやポプリや押し花に。そうなることを前提でマクファーソン家は他家に花を渡している。全ての家門に差し木から枯らさずに育てられるほどの高レベルの庭師がいるわけでもないし、当主や夫人の中には当然薔薇に関心がない者もいると知っているからだ。

「どうして、ここまで……っ、まさか、お父様が」

武家のゾクラフ家がここまで事業として薔薇に力を入れているなんて、これまで一度も聞いたことはない。お父様の耳に入らないはずがーーそこまで考えたアメリアは、まさか、と考える。実はお父様はこのことを知っていて、秘密裏に栽培に協力していたのでは、と。

「お察しの通り、マクファーソン伯爵の協力を得ています。……しかしゾクラフ家の事業としてではなく、私個人の願いでした。貴女に頂いたものを枯らしたくなくて、父に泣きついたんですよ」

ウィリアムはまるで当時のことを思い出したかのように微笑みながら、じっと見つめてくる。その目線に強い熱を感じたアメリアは、もの慣れなさにまるでどこかに逃げたいような気分になった。

男性に、こんな表情で見つめられるなんて。そんなことはこれまで一度もなかった。恋物語なんて自分事ではない、わたくしには関係ない話。幸せな男女の背後で素敵な小道具になる薔薇、それを誠心誠意育てることこそがわたくしの喜びーーそうとしか考えていなかったのに。

そんなわたくしに、ウィリアム様の好意が向いている。まさか、と思おうにも、その微笑と視線の優しさが勘違いとは思わせてくれない……。

「あの頃の私は強大な保有魔力をほとんど操作しきれず、周囲の者を危険に晒すばかりでした。乳母を魔力暴発に巻き込みかけた時の話がどこからか漏れて、同世代の者にもその親にも怯えられ遠巻きにされていた」

語られて、確かに子供たちの中では間違いなく浮いていたような気が、とアメリアの脳裏にも当時の思い出が段々とよみがえってくる。

そうでしたわ、思い出した。あの時、ウィリアムと一緒にいたらルーカスが話しかけてきましたのよ。それじゃあみんなで話しましょうか、と思っていたら、相手の素性に気づいたルーカスは「うわ、こいつあの『凍らせ令息』だ!みんな近づくなっ」などと言い放って、走り去って……。

「ですから、アメリア嬢。あの日貴女から頂いたこの花は、文字通り『希望のかけら』でした。手放せるはずもなく、私はその希望にしがみついたのです。既に貴女にはルーカスという婚約者がいたので」

そう、既にその当時にルーカスとアメリアの婚約は成立していた。同世代の令息と令嬢の中では一番早い婚約だったのだ。

「ですがーーそれも、過去のこと。家同士の話も順調に進み、今日貴女はこうして正式にゾクラフ家に……この私に会いに来て下さった。それがどれほどの喜びか」

ウィリアムは面前の「希望のかけら」からひとつの苗を選んでその手をかざす。その人差し指の爪の先で宙に線を描くと、ピッと乾いた音を響かせて花の部分が切り取られ、彼の手のひらに綺麗に収まった。同時に、茎にあったはずのとげも残らず切られている。一連のそれは全く無駄のない魔力操作だった。魔力がほとんどないアメリアから見ても見事なものだと思われた。

「……触れても?」

問われて、頷く。この人になら、触れられてもいいと思う……。そんなアメリアの肯定に応えて近づくと、ウィリアムはその長い指ですくようにしながら前髪に触れてきた。まるで宝物に触れるかのようなその触り方に、彼の気持ちの全てが込められているようにアメリアは感じる。そろりと指が動くたびに冷気もすっと肌を撫でていく。いちいちびくりと肩を震わせていることが、「わたくしは今、貴方の一挙手一投足、全てを意識しています」と明確に示していて、アメリアはひどく恥ずかしい。思わず頬を赤らめてしまった彼女の反応を楽しむように目で追いながら、ウィリアムは毛先に口づけてくる。

「……っ!」

息を詰めてしまったその瞬間、ふ、とウィリアが小さく笑った。耐えきれず、といった様子で。

「そんなに可愛い顔で睨まれると、困りますね」

そんなことを口走り、笑っている。羞恥を味わうと同時に、その笑顔にドキリとしてしまうアメリア。その銀髪に涼しげなグレーの瞳という容姿の寒色の色合いもあって、真顔でいる時のウィリアムは増して冷酷で非情に見えてしまう。そもそもこの男が人前で笑うこと自体が珍しいのだ。しかしその笑顔はまるで幼い子供がいたずらを仕掛けた時のような無邪気さに満ちていて、彼が普段公的な場で見せている姿と比べるととても意外なものだった。

怖い方と聞いていたけれど、笑ったりもされるのね。ああ、どうして、胸が痛い、破裂しそう……。

アメリアが動揺を隠せないままぷるぷると肩を震わせているうちに、懐かしいあの日と全く同じ位置、アメリアの右耳の上に「希望のかけら」が飾られた。

これも魔法なのかしら。わずかに指が触れた場所全てが、異様に熱い気がするわ……。

文字通り「希望」を与えられたような気持ちになり、アメリアは思わずじっとウィリアムの指先を見つめてしまう。離れがたい気持ちで。

「あの時、我が家の薔薇を手にした方には笑っていて欲しいんだと、貴女はそう仰いましたね。実は私も今、全く同じことを思っています」

全て覚えていらっしゃるのね、とアメリアが思った時、ぱたりと涙が自分の足元に落ちていくのを認識した。いつの間にか泣いてしまっていたのだと気付いて意識して止めようと試みるが、止まらない。

悔しくても決して泣かない、とアメリアは誓っていた。けれども、これは悔しさから出た涙ではないーーきっと喜びの涙だ。

「このゾクラフ家で、私の妻として一生を笑顔で過ごして頂きたい。薔薇と共に。貴女には、もっと希望に満ちた強気の笑顔が似合う」

続けられた言葉に、本当はずっと誰かにそう言って欲しかったのだ、とアメリアはようやく理解した。ルーカスが言わないならそんな相手なんてきっと存在しないと思い込んで、だから恋愛への興味も結婚への執着もないものと彼女は認識していた。けれども。

「私と、結婚して頂けますか?」

胸に手を当てて、ウィリアムは真摯な瞳でアメリアを見つめて言う。その熱に満ちた響きがじわりと心に沁みていく気がする。もはや決壊したかのように涙は止まりそうになかった。

既に家同士の話は済んでいる。例えここでアメリアが嫌がったとしても、ウィリアムは強引に結婚に持ち込むことができる立場にいる。それでも、ウィリアムはアメリア自身の真意を確認して立場を尊重しようとしてくれている。彼女はそれが本当に嬉しかった。

だから、笑ってみせる。彼に望まれた通り、そして自らのあるべきと信じる通りに、強気に。胸元でわずかに震えているウィリアムの手にも気付いて、アメリアは大丈夫だと伝えるように両手でそっと包み込むように握った。

「はい。末長く……よろしくお願い致しします。いつかこの世界中に、わたくしたちの薔薇と笑顔があまねく満ちるまで」

◇◇◇◇◇


「はぁ……夢のようです。アメリア嬢、いや、アメリアが、今私のこの腕の中にいるなんて……まだ信じられません。本当に逃げてしまいませんか?」
「うう……逃げませんと、さっきから、ずっと言っておりますのに……」

すりすりと頬を寄せられ、うっとアメリアは小さくうめく。プロポーズに応えたら抱き締められて喜びを表現された。そこまではアメリアも理解できたし、その嬉しさを共有できた。しかし。

「ですが、さ、さすがにご当主様方の前でのこの状況は、夢と思いたいですわね……。少し逃げたくなってきたかもしれません」
「駄目です。もう一生手放す気はないので」

返答と共に腕の力はますます逃すものかと強くなり、アメリアは視線を漂わせ、赤くなったり青くなったりする。何しろ、ウィリアムにぎゅうぎゅうに抱き締められ膝に乗せられた状態のまま、ゾクラフ家の当主と夫人の目の前にあるソファーに座っているからだ。ただでさえ素晴らしい内装や美しい調度品がしつらえられた貴賓室の豪華さに気後れしているというのに、両親の視線もはばからずにウィリアムはやりたい放題である。

「あら、いいのよ。こんな状態の息子、20年に1度あるかないかの珍事だから。来週の王妃様とのお茶会のいい手土産になるもの」
「は、はぁ……」

コロコロと鈴が響くような声で笑う女性はゾクラフ公爵夫人・ミリル。この国の国王の妹、というとんでもなく高い身分の方だが、特に息子の有り様をたしなめることもなく、優雅かつ楽しげにこちらを観察している。実際本当に珍事のようで、さっきから当主であるベルナルドもソファーの手すりの部分に大きな体を屈めるようにして縋り付き、ピクピクと肩を震わせていた。大ウケだ。強面軍人の呼吸困難になるほどの爆笑、こちらもなかなかの珍事かもしれない。

「ーーいや、失礼した。私がゾクラフ家当主、ベルナルド・フォン・ゾクラフだ。私もこれを明日の王への手土産としよう」

やがて起き上がって改めて真顔を作ろうとしたベルナルドだが、それでもまだわずかに肩口がプルプルと震えていた。

「ううっ……できれば、ご容赦頂けると……」

アメリアは何とか呟いたが、当主夫妻はふたりしてそれには答えずにただ笑顔で流したので、一週間以内に全てが王城に伝わることは確定したようだ。現に両人ともに「こんな面白い話、誰かに伝えないわけがないだろう」と言いたげな顔をしていて、アメリアはせめて話の中身を知る人の数が少なめに収まることだけを祈ることにした。当のアメリアだって、もし自分のことでなければ同じように爆笑、後に光の速さで噂していたに違いない。あの何かと噂の「ゾクラフ家の凍らせ令息」が令嬢相手にしまりない表情でデレデレする話なんて、それはもう格好のネタだろう。貴族の噂話は一瞬で千里を駆け抜けるものだ。

「それで、本題なのだが。婚約の話の前に、することがある。王家からこの書状を預かってきた」

いよいよ真面目な顔になり、ベルナルドは一通の手紙を差し出す。テーブルに置かれたそれに、アメリアも真剣な顔で向き直った。それは確かに王家の印がついた正式なものだったから。相変わらず腰にはウィリアムの両腕がしっかりと絡んではいたのだが。

「先日の新種の薔薇の件なのだが。正式な審査の結果、ルーカス・オルコットが申請した新種については、色々あって申請不受理となった。詳細はこれに書かれている通りだが、概要はここで簡単に話しておこう」
「えっ……色々、とは」

まさかここであの薔薇の話が出るとは思わず、アメリアは息を飲む。しかも、ルーカスの新種の登録申請が通らなかったという話だ。

「まずは、オルコット家の断絶が確定した」
「だ、断絶、とは」
「当然ですね。私が王太子殿下にまとめて手渡した捜査資料は完璧だったはずですから」

まさかの事態に絶句したアメリアだったが、背後のウィリアムは鼻を鳴らし、納得したように頷いている。どうやらこの件にはウィリアムどころか王太子殿下までもが関わったらしい。

「ルーカスによる薔薇の件に関わる窃盗・詐欺の疑いと、あとは別件で父親……当主の脱税と魔法兵器部品の他国への密輸だな、10年ほどに渡ってやっていた。さすがにこれには王もお怒りでな」
「加えて、ちょっと外交的な問題もあって」

ふぅ、とベルナルドがため息をつく。続けてミリルも眉を寄せて遠い目になった。そちらもそちらで何やら大変だったようだ。

「貴女も知っているでしょう?今、すごい勢いで世界各地の薔薇の栽培が行われていて、それはまぁ、素晴らしいことなのだけれど。中には人気をいいことに世界中に投機バブルを起こそうと考えている者がいるの。それに伴って強引な取引や詐欺、窃盗、転売、あとは権威付けして価格を吊り上げるために賄賂を有力貴族に渡して……だとか」
「ああ……なるほど。『虫』がわいたんですね」

アメリアは納得した。植物界隈にはたまにあることだ。愛情や趣味以外の目的で植物に手を出す者が、この世にはいる。薔薇を心底愛するアメリアにとっては『虫』としか思えないが。

「そうね、隣の帝国の女帝が薔薇に強い興味を抱いた5年ほど前くらいから悪質化して、破産しかける家門まで出る始末。周辺の国の貴族にまで波及しそうだったのよ。国内は貴女の実家、マクファーソンが上手いこと動いて引き締めてくれたんだけれど、今オルコットに余計なことをされたくなかった。貴女の新種も帝国に転売予定だったようね。ようやくルーカスが口を割ったわ」
「あんの、ルーカス……まさか、そんなことまでしてるなんて。本当に、あの男……!」

アメリアは頭をかきむしりたくなる。ルーカスが花を見るなり「ところでこの花、いくらで売れるの?」などと聞いてきたことがあったのをふいに思い出す。おそらく、マクファーソン家の表面上の成り上がり具合に目を眩まされたのだろう。オルコットとの婚約は先々代が薔薇園を邸宅に作るほどの薔薇好きだったから決めた、と両親から聞いていたが、跡継ぎのルーカスにはその愛は全く受け継がれなかったようだ。アメリアは今回の婚約破棄の件で両親がことさら娘に対して申し訳なさそうにしていた理由を察した。先々代の愛を信用し過ぎた、ということらしい。

「まぁ、少しうちの息子がやり過ぎた感はあるのだが……。いくら子供の頃にいじめられたり初恋の子を盗られたからって私怨が過ぎるぞウィル。それからそろそろアメリア嬢を放してあげなさい」
「叩けば埃が出る家門が悪いのでは?私は単に全ての先方の悪事を書類に書き付けて速やかに王太子殿下に提出しただけですし?あと、嫌です」
「こら、冷気を出して威嚇するな。もうお前からアメリア嬢を盗る奴はどこにもおらんぞ」
「父上が放せなどと言うからです」

たしなめる口調のベルナルドに、つーん、と言いたげにウィリアムはそっぽを向いて、またアメリアを抱き締めた。グリグリとその頭をアメリアの首もとに擦り付けている。その言動はまるで子供みたいだ。

待って、初恋の子、って今聞こえたのは気のせいですわよね、そんな……そんなことって。

動揺に動揺を重ねられる状況になり、アメリアはただ赤面したままぱくぱくと口を開けたり閉じたりする。

「……久々に見たわぁ。反抗期もろくにない子だったけど、アメリアさんと薔薇のことになると毎度ごねて譲らないのよね。下手すると全魔力を総動員して抵抗してくるし」

吐息をついてお茶に口をつけるミリルは、何だか慣れた口振りだ。毎度って、全魔力って、とアメリアは呟き今度はとことん青ざめた。

「お、お手数を毎度お掛けしまして……?」
「いいのよ。だって今後はアメリアさんが全て引き受けて下さるんでしょう?」
「えっ?あっ、はい……それはもう」

あまりに美しすぎる表情でニコッ、とミリルが微笑むので、アメリアはただコクコクと超高速で頷くしかない。

「そう、じゃあお願いね。その子が落ち着いてまっとうに会話が成立するようになるまで、わたくしたち席を外すわ。行きましょうか、あなた」
「そうだな、この続きは小一時間後にでも」
「えっ、そんな、待って、」

すると、ゾクラフ公爵夫妻は揃って部屋から出ていってしまった。よって、ごねる彼らの息子の相手はアメリアに一任されることとなった。

……まんまと逃げられましたわね、これ。

アメリアはちらりと腰や背中に絡み付く腕に視線をやり、次にウィリアムの顔を見る。まるで大人におもちゃを取り上げられずに済んでほっとしている子供のような瞳をしていた。改めてにこりと笑いかけてくるその表情の作り方は、どことなく母であるミリルに似ている。先程までこの身を包み込むかのごとく取り巻いていた冷気も完全に去り、「なるほど、確かにベルナルド様が言う通りに威嚇だったのね」とアメリアは納得した。

「ふふ、やっとこの手に届きました。私の『希望の薔薇』そのもの」

念願の2人きりの状況を当主夫妻に許されたからか、ウィリアムは安心して満足げに頬に触れてくる。その手つきはやはり優しいが、何でかどんなに暴れてみても全く逃げられないのが不思議である。腕を押し退けようとしても微動だにしない。

数刻前の馬車の中で「自分はゾクラフ公爵家でやっていけるだろうか」と不安になっていたアメリアだったが、今は全く別の意味で心配な気分になってしまう。もしかして、かなり厄介な人に捕まってしまったのかも?などと考えて。無駄に顔が美しく魔力も格式も高い高位貴族令息なため、貴族令嬢の結婚相手としては最高ランクであるところが、成り上がりの立場では全く逆らえなくて悔しい。……いや、もうどうせそれ以外の精神的な部分でも、全く逆らえはしないのだが。アメリア自身が「この人なら」と思ってしまったのだから。

「……ウィリアム様は、意外と強引だったり、そんなふうにニコニコと笑ったりもするんですのね。わたくし、全く知りませんでしたわ。だって、これまで泣き顔しか見ていませんものね」

ただ負けず嫌いではあるので、アメリアは意趣返しのつもりで少し皮肉を言ってしまう。だが、ウィリアムにはさして効いてはいないらしい。

「今やその泣き顔を覚えているのは家族と貴女くらいですよ、アメリア。それと、どうか私のことはウィルと呼んで頂きたいです」

笑顔は崩れぬまま、いつの間にか取られていた右手の甲にキスをされる。手強い。逆にアメリアの方が動揺して赤面することになった。

「ず、ずいぶんと調子に乗っているのでは?」
「貴女に許されているらしいと知った今、乗らずにどうするんです」

完全に心を許している、と既に伝わってしまっている。あっさりと指摘され、恥ずかしさに任せて思わずじろりと強めに睨んでしまうが、ウィリアムはそれさえも楽しんでいるようだ。しかしただ黙ってじっとしてしまうとより強く抱き寄せようとしたり体のあちこちにキスを落とされたりするため、アメリアはなるべく普通の会話を試みる。

「ウィリアム様は……」
「ウィル、で」

早速アメリアは強めに訂正されてしまった。なので、言われるままに従うことにする。

「ウィル様は、女性にはかなり当たりが強い方なのだと噂では伺っておりましたが、本当はそうでもなかったんですね」

アメリアが問うと、ウィリアムはきょとんとした顔になる。意味が分からない、と言いたげに。

「アメリア以外の令嬢と何か会話したり、あえて笑いかけたりする意味があるんですか?あれだけ過去に冷遇しておいて、私が近衛に入り王太子殿下の側についた途端、過去を忘れたかのように態度を変えて寄ってくる羽虫のような女たちに?」
「……なるほど」

色々と言うべきことが大量にある気がしたアメリアだったが、今は触れないことにする。とても傷ついた過去がある、ということだろうから。

「あの『希望のかけら』は一体何をどのようにして、あそこまで?」

意識して話題を変えた。アメリアとしては、やはり薔薇のことはしっかり訊いておきたかった。あれだけ「しばらくは薔薇のことは考えないようにしたい」とまで思い詰めていたはずが、自分から話したい気持ちがいつの間か止めどなく沸いている。自然と。

「マクファーソン伯爵より頂いた手紙を頼りにして、魔法の教師についてもらい、庭師の協力も得まして。この土地の気候もありますが、そもそも私が近くにいるだけで植物は少しずつ魔力に当てられて弱ってしまいます。なので当日帰宅後は泣く泣く母上に預けて保護魔法をかけてもらい、じわじわと近づくことから始めました」

ウィリアムは右手の指先で宙に円を描く。するとその位置に氷の粒が現れた。ひゅう、とその粒を核にするかのように冷気が取り巻いて、氷は段々と大きく育つ。やがて大人の男の握りこぶし程度の大きさになった氷塊が、ピキピキと小さく鳴動しながら一輪の薔薇を形作った。それは氷だから色も香りもないが、花弁の形など、完全に「希望のかけら」の特徴をとらえて再現してある。

「綺麗……」

宙に浮いたままゆるりと回転する花にアメリアは思わず手を伸ばす。すると再び氷の薔薇を、今度は柔らかな風が包み込んだ。

「冷気は中に閉じ込め、外側の外気とは馴染ませています。そのまま触ってみて。基本的に私の魔力が続く限りは溶けないので」
「わ……不思議」

ふわりと手に収まった氷の薔薇には刺々しい冷たさはなく、しかしほのかな冷気だけを指先に伝えてくる。そして普通の氷のようには溶けてしまわない。アメリアの手のひらが水滴に濡れることは全くなかった。何だか不思議な感覚だ。魔力操作を極めるとこんなことも可能らしい。

「必死になって鍛練した結果、私はようやく正確な魔力操作を覚えられたのです。全て、貴女がいて、薔薇があったからこそできたこと。だからこそ、あの薔薇は私の『希望』で、貴女は私の宝物なんですよ」

手の中の薔薇はキラキラと日光を透過し、また反射して美しい。それは一切曇りがなく、透明度が異様に高いからだ。確かに彼が語る通りの、たゆまぬ鍛練の成果に違いなかった。だが、そこでアメリアはふと思い当たって訊ねる。

「え、でも、ここまで操作できるのに、たまに周囲に冷気が漏れているのは……?」

真意を探ろうとして顔を上げ、ウィリアムとしっかりと目を合わせると、彼は少々気まずそうに視線を漂わせた。恥じたように。

「……それは、普段は周囲への威嚇のためと……貴女の前ではつい動揺してしまい、魔力が揺らいでしまうからですね。まだまだ未熟者です」

その台詞に合わせて、アメリアの手の中の薔薇が幾らか身動きしたように思われた。まるでこの氷の薔薇も製作主と連動して恥ずかしがっているようだ。それを悟ったアメリアは、思わずまじまじと薔薇を見て、それから横目でウィリアムの表情を確かめつつも、ちゅっと軽く触れるだけのキスを落としてみる。

「っ、ぐう……っ!」

途端、ウィリアムは左手で胸を押さえるようにして息を乱し、右手で顔を覆って何とも言えないうめき声を漏らした。パキパキパキ、とアメリアの手元の薔薇は鳴動する。そうして「育った」とも言える形で花は一輪から二輪に増えた。それでも馴染ませた冷気が暴走したり花が溶けたり、という状況にだけは至らなかったのは、ウィリアムなりの男の意地だったのかもしれない。

「あら。どうやらわたくし、さっそく氷の薔薇の増やし方も習得出来たようですわ!」
「……っ、これは、容赦ありませんね」

完全に音を上げた様子のウィリアム、その耳のまで赤くなるさまにアメリアは声を立てて笑う。そんなふうに素直に無邪気に笑えるのはかなり久しぶりのことだった。

「だって。美しい薔薇を見ると増やしたくてたまらなくなる、というのは、マクファーソンの娘としては当然のことですもの」

ずっとやられっ放しだったのがようやく明確に反撃できて、アメリアは嬉しくてたまらない。そんな婚約者の憂いの欠片もない笑顔を眩しげに見つめ微笑むと、ウィリアムはアメリアの頬にキスをし返しした。あえて彼女に意識させるために、わざとちゅ、と音を立てて。

「いいでしょう。お望み通り、受けて立ちましょう。貴女の望むまま、いくらでも増やして見せますよ。私の愛の証としてね」

◇◇◇◇◇


数か月後、武家のゾクラフ公爵家が全く畑違いと言える薔薇を売る事業を始めたという噂に、国中の貴族たちは軒並み腰を抜かすことになった。それは当初、元王女である公爵夫人・ミリルの提案によるものかと思われていたが、夜会での「いいえ、これはわたくしでなく、息子夫婦の事業ですの」との発言にますます人々はその目を見開く。

息子?あのゾクラフの凍らせ令息が、薔薇を?いやいや、奴はそこにいるだけで空気さえ凍らせると評判の冷徹近衛騎士だぞ。一体どんな顔で花なんて売るつもりだ。

そうちょうど場の人々の疑問が最高潮になったところで、件のゾクラフ公爵家の跡継ぎが妻を伴って会場に姿を現す。王太子殿下と挨拶を交わす夫妻の姿に、またどよどよと人々はざわめいた。

男はこれまで一度も公的な場で見せたことのなかった、非の打ち所もない笑顔をしていた。無邪気にも見えるその表情が逆に邪気そのもののように思えて恐ろしすぎたようで、ヒッ、と一部の夫人や令嬢が息を詰めて卒倒しかける。各貴族当主や令息たちも背筋が凍ったかのような顔で固まっていた。とりわけ彼と同じ時期に貴族学校に通っていた者たちほど、衝撃は大きいようだ。

そして衝撃から意識を取り戻した者たちは、やがて男の隣にすらりと立つ美しい女性に意識を移すことになる。凛とした黒髪は艶やかな直毛で、決して控えめで女性らしいとは言えない少し勝ち気にも思える視線は、しかし強きゾクラフ家の嫁としてはかなりしっくりと馴染んでいる。その髪には一輪の薔薇。黄色の花弁の縁に紅色が映えていた。一見シンプルなデザインに思える黒のドレスにも、呼応するかのように銀の刺繍で見事な薔薇が描かれている。だが、あくまでも髪に飾られている薔薇の鮮やかさの方を強く引き立てるための装いだった。

ある薔薇好きの令嬢が「あれは少し前に見たことがある薔薇だわ」と気付き、そしてその時の騒動とひとつの断絶した家門のことにも思い至った頃には、会場の誰もがその女性の名を正しく言い当てることができた。

あのゾクラフ公爵家にマクファーソン伯爵家の娘のアメリア嬢が嫁いだらしい、という話は本当だったのかーーあれが噂の「ゾクラフの薔薇」か。

「ははは、君、本当すごいねぇ、ウィル。ただ笑っただけで、ここまで大混乱とは。凍らせ令息の本領発揮、といったところかな」
「そうですね、またつまらぬものを凍らせてしまった模様で」
「おや。笑顔で冗談まで言えるようになったようで、本当に何よりだよ。絶好調じゃないか」

そんな混乱した周囲の雰囲気を堪能し、王太子殿下は非常に楽しげだった。困った困った、と呟きながらも「期待通りで大変愉快だ」と満足げな表情だ。こういうところに殿下とミリル様ーーお義母様との血の繋がりを感じるわね、とアメリアはご婦人スマイルを作りつつも考える。

「やあ、アメリア夫人。その髪の、見事な薔薇だね。初めて見るよ、新種かい?名前は何というのかな?」

すると、王太子殿下がにこやかにアメリアに声をかけてきた。そしてこの瞬間、「その薔薇は今回の夜会で初めて披露されたものだ、という事実が王家の認識として示された」。断絶したどこかの家門の男が以前の夜会で披露し登録申請していた花、などという不名誉な話はこれでこの可憐な薔薇から完全に消え去った。なにせ王太子殿下自らが公的に「初めて見る」と発言したのだ。誰も文句は言えまい。

「はい、殿下。こちらの新種には『リセット』と名付けましたこと、改めてご報告致します」
「へえ、素敵だね。いい名だ」

アメリアの紹介に、王太子殿下はしっかりと頷いた。よかった、これでようやく「リセット」は無事に新種として正式に登録され、量産・販売のルートに乗せられることになることが確約された……そう肩の荷が降りたような気持ちになるが、アメリアは「いけない、顔が緩みすぎよ、まだ殿下の御前、他の家門の皆様の目もあるのだから」と意識して気を引き締める。

「うちの城の庭にも欲しいな。こういう美しいものを是非とも自慢したい人がいてね」
「と言いますと?」
「そうだね、どこかの薔薇好き女帝の人とか?高く買ってくれるかもねぇ。正規ルートで」
「殿下のお力添えでそれが可能とあらば、我が家としても嬉しいお話です。ねぇ、アメリア」
「ええ、是非」

完全に茶番ではあるが、これで「横行していた薔薇の悪質な転売・詐欺行為や正規でない他国との金銭が絡む商取引には王家とゾクラフ公爵家が目を光らせていますよ」と周知できたと思われた。

しかし実際は、多くの人々がそんなことより「ねぇ、アメリア」とウィリアムがアメリアに呼び掛けた時の微笑と声の甘ったるさに気を取られて阿鼻叫喚になってしまったため、この件については再度の国からの通達が必要かもしれなかった。残念ながら。ただ間違いなく、「ゾクラフ公爵家と薔薇」という異端の組み合わせだけは参加していた全ての貴族の脳内に強烈に刻み込まれることとなった。それを悟り、王太子殿下は「結果的にいい宣伝になったようでこちらも色々とやりやすくなりました」などと国王夫妻に報告したという。


王太子殿下との会話を終えると、アメリアはウィリアムに伴われてバルコニーに出た。その性格は比較的気丈なアメリアではあるが、さすがに王家の方の前に出ることにはまだ慣れておらず、ちょうど一息つきたいと思っていた。

「お疲れ様でした、アメリア」
「そうね。ようやくホッとしたわ……」

ウィリアムの手にはグラスがふたつ。アメリアは吐息をつくと差し出されたグラスのうち淡いピンクの液体の方を受け取って、口をつける。桃の風味のシャンパンだった。アメリアの好みぴったりの味だ。鼻を抜ける甘い匂いとシュワシュワとした炭酸の舌への刺激が疲れた体に心地いい。ウィリアムも残ったグラスを口元に運ぶ。そちらは赤ワインのようだった。アメリアは赤ワインも好んでいる。好きなものふたつから気兼ねなく選べるようにと心を砕いてくれたと分かって、アメリアの頬はアルコールのせいだけでなく赤くなる。結婚したとは言っても、まだこのようにウィリアムに尽くされることに完全に慣れてはおらず、未だドキドキしているアメリアだった。

衣装も含めて、文字通り、薔薇を背負ってますわね。わたくしの夫、美し過ぎますわ……。

今日は夜会のためウィリアムも着飾っている。アメリアの黒のドレスに合わせるようにジャケットには漆黒に銀の刺繍入りだが、それは薔薇の刺繍ではなく、もっと紳士らしいデザインだ。しかし一見真っ黒に見える部分の生地には光沢がある黒の糸で刺繍が施されており、光の加減で薔薇の模様が浮かび上がる仕組みだ。ただでさえ美丈夫だというのにいつにも増して輝いているため、アメリアの胸の鼓動もとりわけ早まっている。

「今日のこの日は我々の夢への第一歩でしたね」

ウィリアムのその台詞に、アメリアは遥か昔から心に願っている「世界に薔薇と笑顔を」という壮大な夢を意識した。正直、彼がここまで真剣に薔薇について真正面から考えてくれるとは考えていなかったのだが、先ほど「我々の夢」と語ったように、ウィリアムは近衛の仕事の合間を見つけては日々積極的に薔薇関連の事業に参加し、たまにアメリアと一緒に土にまみれることさえある。当初はアメリアだけの夢だったものを、今は「我々の夢」だと明言してくれている。

「本当に、まだ、たったの一歩だけれど……とても希望に満ちてるわ」

アメリアの返答にウィリアムは小さく頷いて、ワインを口に運んだ。少し遠いところでさざ波のように人の話し声と音楽が響いているのを聴きながら、アメリアは愛する人の肩に頭を預けるようにしてその目を閉じてみる。夜会特有の場の雰囲気と、お酒と、手にした成果と、ときどき瞼や頬に労うように落ちてくるキス。それらが与えてくれる、ふわふわとした高揚感に身を任せる。

「ねぇ、わたくし……今とても、幸せよ、ウィル」


[おわり]

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