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アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所を訪れて

はじめに

こんにちは

ヨーロッパ旅行も1週間が経過しました。
私は、先日、ポーランドにあるアウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所へと足を運んできました。

皆さんも歴史の授業で1度は習った、ナチス・ドイツのユダヤ人大量虐殺。
高校生の時からここで何が起こっていたのか、どうしてこんなに人々が殺されたのか、など興味を持っていました。
またその頃からアウシュビッツ収容所の日本人唯一の公認ガイドである
中谷剛さんを知っており、
今回念願叶って中谷さんのガイドを受けることが出来ました。

中谷さんのガイドを聞いて学んだ事、考えたことをまとめていきます。

収容所が出来た経緯

1939年9月1日、ドイツがポーランドに宣戦布告し、第二次世界大戦が開戦。
ドイツ軍はポーランドを3週間あまりで降伏に追い込むも、その後も抵抗するポーランド人政治犯が依然として存在した。
彼らを収監しておくべき他の収容所が手狭であったため、ドイツ軍は新たな収容所を建設しようとしていた。

この過程でドイツが着目したのがポーランドのオシフィエンチムの郊外。

選ばれた理由として、
・ヨーロッパ各地に繋がる鉄道があったこと
・川があって脱出しづらいこと
・ポーランドの兵舎があったこと


そして、ドイツはオシフィエンチムという名前をドイツ語のアウシュヴィッツに改め、1940年6月14日に、ここに728人のポーランド人政治犯が収容され、アウシュビッツ収容所の歴史が始まった。


アウシュビッツ・ビルケナウの地図。鉄道は四方向に伸びている

今でこそユダヤ人大量虐殺の印象が強いが、当初はナチス・ドイツに抵抗したポーランド人の収容が目的であった。

しかし、1942年頃からこの収容所に新たな目的が加わった。
それは、ヨーロッパに住むユダヤ人の大量虐殺。

もともと、ドイツは第一次世界大戦に敗戦後、
多額の賠償金、スペイン風邪、世界大恐慌などによる経済不況に苦しみ、国民の生活は困窮していた。

人間は苦しいことが続いたとき、その原因をどうしても他人のせいにしたくなる。新型コロナウイルスが流行しだした時もそう。感染者を何か悪いことをしたかのように叩きまくっていた。

ホロコーストの場合を考えてみよう。
2000年以上前に国を失ったユダヤ人はヨーロッパ中に逃れるも、行く先々で自分とは異なる文化を持ったよそ者として差別を受ける。
ある者はこれをバネにし、学問や芸術、経済など様々な分野で活躍した。
だが、そんな彼らを快く思わない者もおり、
特に生活に困窮していたドイツ人にとって、恰好の不満のはけ口となってしまった。

苦しい状況の中で、
1933年1月、アドルフ・ヒトラーがドイツの首相に就任。
彼はアウトバーンなどの公共事業を進め、雇用を増やす一方で、
国民生活の不満のはけ口をつくるため、また、彼自身、ウィーンにいたときにユダヤ人に対する差別や偏見を抱いたため、
1935年9月、人類史に残る悪法「ニュルンベルク法」を制定する。

ユダヤ人以外との結婚を禁じたり、特定の店に入ってはいけなかったり、夜間の外出を禁止したり、と当初は命を奪うまではしなかったが、
(それでも酷い仕打ちではあるが)
1942年を境に強制収容所に追いやって虐殺し、
ユダヤ人をこの世から絶滅させる方針に転換した。

収容所の生活

貨車に押し込まれたユダヤ人は強制収容所まで連れてこられ、
到着すると下の写真のように、ドイツの医者によって労働力として使えるかどうか決められた。

貨車から降りたユダヤ人を選別している写真

持ってきた荷物、財産は全てSS(ナチスドイツの親衛隊)に没収され、
医者によって労働力として使える見込みがないと判断された大人、老人、13歳以下の子どもなどは
「シャワーを浴びろ」と言葉巧みに誘導されるが、
行った先では水など一滴も出ず、
代わりに出てくるのは殺虫剤を人殺しに転用した有毒ガス(チクロンB)。
そう、ここは人間を効率よく大量虐殺するためのガス室であり、ここに来た人々は10分〜15分程度で息絶えた。

ガス室の模型。左側の地下にある部屋が脱衣室、右側の地下がガス室

よく、強制労働に従事させられた人の方が多いと印象を持つ人がいるが
アウシュビッツ収容所に連行された人々の75%〜80%はすぐにガス室送りにされて殺された。

運良くガス室行きを免れた人々も、建物の建設作業、
挙げ句の果てには同じユダヤ人の遺体を焼却したりと
劣悪な労働環境に置かれ、その多くが命を落としていった。

ここでの大量虐殺は1945年1月にソ連軍が収容所を解放するまで続いた。
しかし、数少ない生き残った人々の心の傷が癒えることはない。

収容所の内部

ではここからは簡単な見学の手順と共に
現在博物館として使用されている収容所の内部を紹介。

手荷物検査を済ませ、オーディオガイドを受け取って入ると、
最初に見えてくるのが「ARBEIT MACHT FREI」と書かれたゲート。
日本語に訳すと「働けば自由になる」という意味だが、この言葉には裏の意味があり、それがさらなる悲劇を生んでいく。


「ARBEIT MACHT FREI」

今も残る収容所の建物は展示室となっており、
ここには、連行されたユダヤ人たちの遺品が展示されている。
ただ、ここにあるものが全てではない。使用可能なものは当時のドイツ人が自分たちのものにしたのだから。


メガネ
タウェス(ユダヤ教における祈祷着)



(自分を見栄えよく見せるためのハイヒールも容赦なく没収)
義足義手(障害者も排除の対象だった)


さらに髪の毛も囚人たちから刈り取った。
SSは使えるものならば、毛の一本も残らず奪い取っていた。

次に、この看板を見て欲しい。

囚人たちの分類


これは、収容された囚人がユダヤ人だけでないことを示している。
囚人たちには、色分けされた三角形のワッペンを服に付けられ、一目で分かるようにされた。
(例)ユダヤ人→黄色、ロマ・シンティ→黒及び右下にZ、ポーランド人→赤、同性愛者→桃、エホバの証人→紫

SSはごく僅かな人数で、この収容所を管理した。
当然、大量の囚人が結託して反乱や暴動が起きては困る。
このようなことをして囚人同士で結束が生まれないようにしたのだ。

さらには特定の囚人を優遇して、監視作業に当たらせる。
極限に追い込まれた人々は生き抜くためにその立場を求め、それは囚人同士でさらなる分断を生み出した。

先程の毒ガス室も残っていた。
ここに大量の人々が一気に殺されたと思うとおぞましい。

ここからチクロンBが投げ込まれ、空気と反応して瞬く間に人々を殺した
遺体の焼却炉


アウシュビッツの7倍の大きさがあるビルケナウ収容所にも行った。
ヨーロッパ中から囚人を集めた鉄道の線路が残されていた。
当時の貨車も残されており、
ここに60人あまりが押し込まれ、用を足すこともままならなかったそうだ。

囚人を運ぶために使われた貨車

ガイドを受けて

ガイドは3時間以上に及び、受講者からの質問も絶えなかった。
私は幼い頃より太平洋戦争中の暮らしや、広島・長崎の原爆の体験談などを聞いてきたが、
人間が同じ人間をがらくた同然に扱って切り捨ててしまうということ
この点で、改めて恐ろしい場所を訪れたと思った。

しかし、私たちの先祖だって、朝鮮半島から罪のない人々を連行していたので、人のことは言えない。どこにいても加害の歴史とは無縁になることは出来ないし、当たり前だがそのような歴史が2度と起きないように考えていかなければならない。



そして今なお、ウクライナでの戦争が継続している。
ヨーロッパ全体で振り返ってみれば、昔からどこかで何かしらの戦争が続いていた。

それに比べて、私たち日本の歴史において、戦乱の世とされる時代は長い歴史の中でもほんの僅かでしかない。
ある本(※参考文献3)で読んだが、ヨーロッパの「PAX」と日本の「平和」の意味合いは違うみたい。
「PAX」は戦争が終わってから次の戦争が始まるまでの休戦、準備期間。
「平和」は戦争や紛争がなく、世の中が穏やかな状態であること(byデジタル大辞泉)

自分たちが思っていた平和の価値観をヨーロッパに届けるには齟齬が生じてしまうのか。
それでも、EUができ、ヨーロッパ全体で経済を活性化させようとした。
何か起きた際にはすぐにブリュッセルに集まって会議が出来るようにした。
各首脳同士が、1週間に1回は会えるようにした。


日本にも既にたくさんの外国人が流入している。
少子化が進んで、益々日本は移民を受け入れることになるだろう。
そのとき、我々は80年前のドイツのように民族間で優劣をつけるなどして、
差別をするのだろうか。

「自分たちが1番優秀だ」
もし今自分がこの固定観念を持っていたら、今すぐに捨て、
その代わりに、喜びも苦しみも隣にいる誰かとシェアしていくことを忘れてはならない。

過去のことは過去の出来事として捨て去ろうという輩がいる。
確かに過去のわだかまりを捨てて協力することも大事だが、歴史から学ばず
次また同じ失敗を繰り返してしまっては何の意味もない。
天国にいるホロコーストの犠牲者たちの気持ちは無駄になってしまう。

たくさんの言語が用いられた慰霊碑。

旅行の最初に立てた目標
「ありのままの歴史を学んで伝えていく。」
寄った全ての場所でこれが達成できたわけではないが、
アウシュビッツでは微力ながら出来たと思う。

やはり、歴史を学ぶことは暗記ゲームじゃない。

中学の時の歴史の先生が言っていた
「歴史とは未来を見る鏡である」

改めてこの言葉の重みを感じた1日だった。


参考文献

神野正史.世界史劇場 第二次世界大戦 熾烈なるヨーロッパ戦線.ベレ出版, 2019, 331p.

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