一緒にあやまってくれる人がいる、ということ。
保育園へ向かう車の中で私は気付いてしまった。。
「やばい、セイタ。セイタの雪用の手袋忘れたわ。」
『そりゃ、やばいね~、でもママ、大丈夫だよ。
僕が一緒に先生に謝ってあげるから。そして保育園の手袋を貸してもらえるように一緒に頼んであげるよ』
、、、、、おまえのじゃ。
でも、しかし、それはさておき。
一緒に謝ってくれるの?ママと?
え、それなら私、何でもできそうな気がする。
仮に息子がその場にいなくても、一緒に謝れなくても、
『僕と一緒にあやまろう!ママ、僕がついている!大丈夫!』って言ってくれるとママは石の壁も登れそうな気がするんだよ。
これから先、ずっとずっと何があっても大丈夫な気がするんだ。
これが、何をやるにも要になる『安心の土台』なのか。
息子が今、せっせと自分の中に制作中の安心の土台なのか。
今、息子はどえらいブツを制作しているんだな。
これは邪魔しちゃいかんな。
サポート頂きましてありがとうございます! 発達障害児が発達障害児と呼ばれなくなる世界の貢献に使わせていただきます!