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嵯峨野の月#132 円仁の旅・使命

第六章 嵯峨野15

円仁の旅・使命

…の名は…きね…

と沈みそうな意識の中で耳元で誰かが囁き、途端に自分が浸かっている湯の首元から白衣を伝って赤い液体が滴り落ち、それが浴槽全体に広がっている。

これはまさか、血?

うあ、あああああ…!と両手をばたつかせる師僧の肩を強く揺さぶり、

「まったく…湯に浸かりながら居眠りするのはやめて下さい、って何度も言ってるでしょ!」

と弟子の惟暁ゆいぎょうがきつく叱ってくれたので円仁は悪夢から引き上げられた。

開成五年(840年)、初夏。

文殊菩薩の聖地として名高い大陸の霊山、五台山(山西省五台県)に到着した天台僧円仁は赤山法華院(山東省石島)からこの地まで五十八日間で三百二十三里(約1270キロメートル)を踏破した旅の疲れを霊境寺の浴室院で癒していた。

五台山の僧たちを束ねる長老の志遠から「遠い国からよく来てださった、好きなだけここに滞在して納得のゆくまで学ばれるといい」と温かく迎えられ、身も心も湯に委ねている時になんと不吉な夢だ。

ん、んんー…と何かを振り払うように頭を揺らし、浴槽のへりに腰かけた円仁、
この年四十六才。

彼の立場は日ノ本からの遣唐使節の留学僧。

と聞こえはいいが、

実際は唐国じゅうに広がり出した仏教弾圧の煽りを受け、

大陸に漂着早々希望していた天台山への入山を断わられ、強制送還の憂き目に遭うところを在唐新羅船団の頭目、張宝高のはからいで唐国内何処でも通行できる許可証(もちろん偽造)を発行してもらい、

「とにかく真言宗にあって天台宗に足りないものを持ち帰るまでは帰らぬ」

と気のすむまで唐滞在を決め込んだ、いわゆる不法滞在者である。

それにしてもさっきの不気味な夢は一体?

と首をひねっていたところ、円仁たちより先に浴槽に浸かっていた老僧二人が師弟の会話を聞いて顔を見合わせ、そのうちの一人が湯の中にじり寄って来た。

「…もし、そこのお二人。倭国からいらした高僧とはあなた方か?」

と老僧が発したのがほぼ完璧に近い故国の言葉。

ここまで滑らかな日ノ本の言葉の響きを発するとは。彼は何者なのか?

表向きは新羅僧と素性をを偽っている二人はこの老僧にどう答えたものか、と一瞬迷ったが…

「天台山がだめならぜひ五台山へ向かわれてくださいませ。迫害から逃れた都の高僧たちの避難場所で出身国問わず僧たちは手厚く保護される筈です」

と進言してくれた若い天台僧、名は敬文きょうもん

実は敬文、二十六年前寺の童子だった頃天台山に来ていた最澄の世話係だったのだ。

最澄の弟子、円仁が入唐早々突き返されそうだという窮状を兄弟子から聞いた彼はいても立ってもいられず天台山を降り、わざわざ揚州まで円仁に会いに来て「留学の手助けなら助力を惜しみません」と何度も文を出して天台山に掛け合ったが彼の努力は叶わなかった。

その彼が次の手段に、と自らの名でしたためた五台山への紹介状を円仁に渡してくれたのだ。

「罰はお山に帰ったら受けます。短い間だったけれどこうして最澄和尚のことを語り合えて本当に楽しかった…」

と送り出してくれた敬文のきれいな笑顔を思い出してここはひとつ、相手に心を開いてみることにした。


「お察しの通り我が名は円仁、倭国天台宗の僧で彼は弟子の惟暁」

故国の言葉で師弟が自己紹介すると探るような眼をしていた老僧たちは途端ににかっと口元を緩めた、

「拙僧は談勝だんしょう、連れの名は志明しめい。ともに長安の西安寺の僧で倭国からの留学僧のお世話をさせていただいた者です。ようこそ五台山へ」

と浴槽から立ち上がった二人は師弟に向けて揃って合掌したので円仁たちも慌てて合掌を返した。

「…まあここで長話して湯当たりするのも何ですし、一旦上がりませんか?」

と志明が先ほど円仁がうたた寝していた吐口(取水口)の辺りをちら、と見てから談勝ほどではないが滑らかな日ノ本の言葉で自坊に誘った。

四半時後
志明の部屋から明るい笑い声が溢れ出しそれは長い避難生活で疲れていた僧たちを何度か立ち止まらせた。

久しぶりに日の本の僧に会えた談勝と志明はつい実年齢(志明は六十五、談勝は七十だという)を忘れて心は二十五年前に戻り、過去お世話した留学僧との思い出話に花を咲かせた。

「いちいち永忠和尚に捕まって二十年間話相手をさせられていたせいで経文きょうもんより先に日ノ本の言葉の方を習得してしまったよ!」

と談勝は剃髪に手を当ててはっはっは!と笑い、

「その次の遣唐使の霊仙《りょうせん》と空海にはよくたかられたもんだ。あいつら屋台の前で物欲しそうな顔してこっち見るんだぜ!奢ってやらない訳にはいかないではないか。
後で知ったがあいつら談勝どのにもたかってたんだ。してやられたよ!」

と志明が手を叩いてわざと悔しそうな顔をした後で笑いを収めると急に鼻の先が触れそうな距離まで円仁に顔を近づけ、

「二人ともしたたか者だったが学習能力は素晴らしかった。たった三月みつきで梵語を修めた空海が恵果阿闍梨に迎えられて青龍寺の門をくぐったとき俺たち本当に凄いもの見ているんだ、と誇らしかったものだぜ」

とあの時の感動を思い出してほう、と息を吐いた。

「で、ではあなた方が空海和尚を青龍寺にお連れした談勝さまと志明さま(空海の書き付けに二人の名あり)なのですね!?」

と興奮気味に惟暁が問うと「如何にも」と老僧二人は胸をそびやかした。

「空海が私らよりも先に逝ったのは意外だったな。厚かましいから百まで生きると思ってたのに」と談勝が寂しそうに呟くと、

「阿闍梨は人の一生の十倍、いや百倍の密度と熱量でお働きになりました…我が師最澄とは色々ありましたが私なりに尊敬申し上げております」

と目を伏せて言う円仁と、師に目配せをする惟暁。肝心なことを聞きたいが言い出せない二人の様子を談勝は察し、

「お二人が一番知りたいのは霊仙三蔵法師りょうせんさんぞうほうしの消息ですな?」

と話を切り出すと志明は両のこぶしをぎゅっと固めて黙り、立ち上がって背中を向けた。

「霊仙さまが逝かれたのは八年前の事です。この事実を告げるのはとても辛いのですが…あなた方にはすべてお話しなければなりません」


あなたがちょうどうたた寝していらした位置、湯口の横で…霊仙さまは血を吐いて事切れていました。発見したのは志明です。

浴槽が真っ赤になる程の大量の吐血と据えた臭い。転がっていた杯の底に残る粉末は毒薬でした。

僧の最高位である三蔵法師の横死だなんてあってはならない事が起こってしまった。

責任を感じた五台山の僧たちは僧、童子、厨の料理人から使いの下男まで全て聞き込み調査しましたが…

解ったのは三月前長安の禮泉寺れいせんじから来た。と言って入山した玄行げんぎょうという若い僧が山から消えていたこと。
法師と一緒に浴室に入ったのはその玄行だったこと。

まで調査してお役人に報告したのですが…玄行なんて僧侶は禮泉寺には居ないし、そもそも三月前長安から僧が出た記録も無い。という都からの返事。

結局、帰国出来ず絶望した法師の自殺ということで事件は片付けられました。

「ここまで話せば解ると思いますが…おそらく玄行は偽僧侶で朝廷が放った刺客。そうです、もし三蔵法師に帰国されて秘法が漏れるのを恐れた朝廷は、霊仙三蔵さまごと秘密を葬り去ったのです」

そう言い終えて、はあ…と重いため息を吐く談勝と霊仙三蔵の悲痛な最期に言葉をなくして項垂れる円仁の間にあるのは、随分年季の入った山葡萄の蔓で編んだ背負い櫃と十数冊の経典。

「故国より参られてずっと手離さなかった霊仙さまの遺品です。どうぞお受け取り下さい」

震える手で合掌して櫃を受け取ったその時、浴室で見た血まみれの夢が鮮明に脳裏に浮かんだ。

あれは霊仙さまが今際の際に見た光景。霊仙さまの御霊が故国から来た私に真実を伝えたがっているのだ!

こうして櫃に手を触れてみるとああ…視える。霊仙さまの声が聞こえる。


長安脱出後も談勝と志明は昼夜交替で我が身を守ってくれた。

あの時は志明と一緒に入浴する筈だった。
直前に志明が腹を下して厠に籠り、修業の場であった禮泉寺から来た僧から「一緒に湯浴みしませんか?」とつい誘われて行ってしまった油断。

浴槽に浸かった途端に起こった強烈な胃の差し込みに耐えられず「薬ならここにありますよ」と差し出された杯を受け取り、薬を服してしまった時も…刺客は眉一つ動かさなかった。

迂闊だった。我々は直前の食事に既に一服盛られていたのだ。

「長年のご功績のためあまり苦しませずに逝かせよ。との命ですので」と言い残して刺客が去り、
胃の腑から流れる血に浸りながら私の意識は温かい湯の中に沈んで行った…

…が名は…きね…

まだ一つ拾っていない声がある!霊仙さま、あなたは私に何をお伝えしたいのですか?

「霊仙さまを守れなかった、と志明は未だ自分を責め続けています。庭に降りたようです」

行って慰めの言葉でも掛けてやってください、と言う談勝に促されて櫃を持ったまま庭に出ると、庭園の木にもたれかかる志明をすぐに見つけることが出来た。

寡黙で気丈な志明がこの時は己が拳を木の幹に打ち付けて嗚咽を漏らしている。

彼の背後の地面に円仁が形見の櫃を置いて蓋を開けると、中から出て来たものは愛用の文箱と帳面。そして意外にも梵語の守り札にくるまれた細長い包みだった。

丁寧に真言を唱えて円仁が包みを開くと中から現れたのは古来豪族が持つ青銅の宝刀。

添え書きの木片に記された…

息長日来根

という名前で円仁は全てのことが腑に落ちた。

私の名は、息長日来根おきながのひきね

夢の中の声は確かにそう言った。あの時霊仙さまは私にまことの名前を伝えたかったのだ。

「そうですね、貴方を殺した国の名で呼ばれ続けるのはもう嫌ですよね。一緒に日ノ本に帰りましょう。日来根さま…長安の方角はどちらです?」

問われるままに志明が向こうだ、と指差した方角に向かった円仁は遺品の銅剣を右手に構えて何かの呪文を唱えていた。

悔しい、悔しい、悔しい…
領土が広いからか?兵力があるからか?大国なら何をしても良いというのか?

奪われ尽くしても抵抗出来ぬ惨めさを、せめて思い知るがいい。

ああ、入ってくる…藤原清河どの、安倍仲麻呂どの、石川道益どのの帰国かなわず大陸で命尽きた無念が。

往復の途上で海中に没した水夫たちの恨みが。

そして有史以前から大陸の暴逆に踏みにじられてきた民たちの怨嗟が日来根さまのかける古来の修法に吸い寄せられ、剣はまじないいの力でどんどん重くなっていく。


円仁は銅剣をまるで矛投げの構えのように精一杯肩の後ろに引きつけて力を溜め、剣に溜まった力が最大限になったのを確かめると、

救急如律令きゅうきゅうにょにつりょう!」
(急ぎ急ぎこのしゅを実行したまへ)
と叫ぶと同時に渾身の力で剣に込められた「何か」を都に向かって放り投げた。

炎を纏った巨大な鉾が円仁の手から放たれた!

と思って志明は身を竦めたが一瞬後顔を上げるとそこは夕陽で朱色に染まる庭。その中央には何事もなかったかのように銅剣をしまう円仁がいるだけ。

「奪ったものを貪って当たり前だと思っている不遜で傲慢な大陸根性に小国なりの意趣返しをしたまで。私も一応密教僧ですので」

と微笑みながら志明の唇に指を当てて口止めをする円仁に志明は、

もしかしたらこいつは空海より怖い男かもしれない。

と脂汗を浮かべてうなずくしかなかった。


空海阿闍梨

あなたが五年前突然比叡山にいらして講堂に並び立つ天台僧たちの顔を見回し、私と目が会った瞬間…

「あんたはんが最澄さまの秘蔵っ子円仁やろ?」

と初対面で名と立場まで当てられたのには驚きました。さらにその場で次の遣唐留学生に私を指名して座主の円澄さまに強引に許可させ、別室に二人きりになるとあなたは御年六十ながら強い力で私の両肩を抱き寄せ、

「今の天台宗に足りないもの。何処へ行って何を学ぶべきか、何を持ち帰るべきかをこれから全て教えて進ぜる。なあに、今から言う三つのものを唐土から持ち帰ればいいだけ」

国一番の高僧にそう乞われても不穏な噂しか聞かない唐に行くのは正直言って嫌でした。

けれど「あんたの唐での働きでこの国の密教体系が完成するんや、頼む!」と額づかれてまで頼まれてしまったんだから仕方ないじゃありませんか…

「はっきり言って私は船に乗るのも外海を渡るのも怖い臆病者。様々な難事に見舞われて本来の目的を忘れてしまうかもしれませんよ」

と持ち帰るべき三つのもの覚えた私が生意気にも反駁するとあなたは振り向きざま不敵な笑みを浮かべてこうおっしゃいましたね。

「もう駄目だ。と思った時は『何故か、うまくいく』と口にすればよい。これはどんな真言よりも効くで」

翌年にあなたは逝ってしまい、最初で最後のこの邂逅で私の人生は大きく変えられてしまいましたよ。

何故か、上手くいく。

もう何千回唱えたか解らないこの言葉、果たして効いているのかいないのか?と首をかしげる位入唐以来散々な目に遭ってきた円仁だったがこの言葉のせいで周りからは豪胆で面白い僧侶と思われ、もう駄目だ!と思った時には何故か誰かが救いの手を差し伸べてくれて命も荷物も獲られずにいる。

やはり効いているのだ、と思うしかない円仁であった。

法華経と密教の整合性に関する未解決の問題など「未決三十条」の解答を得、日本にまだ伝来していなかった五台山所蔵の仏典三十七巻を書写。と五台山でやるべきことの全てを終えた円仁は老師志遠と談勝、志明ら空海知己の僧たちに見送られ、長安へ向けて出立した。

まずは持ち帰るべき三つのものの一つ、三蔵法師霊仙の消息を確かめること。

「生きていればご本人を、残念ながら死しておられたなら御名と御霊を遺品の櫃に封じて持ち帰るのだ」

という阿闍梨のご遺言果たしましたぞ…

あと二つは当然、長安青龍寺での両部灌頂と金剛界曼荼羅。その二つを手に入れて初めて天台宗は宗派として完全となるのだ。

この先の行程二百八十里(約1100キロメートル)と知っても確固とした目的があれば活力が湧いてくる。

もう誰も最澄さまのように密教で苦しませたくないし、この先の弟子に絶対苦労はかけない。

そう決意した円仁は「焦らず確実に行きましょう惟暁、大丈夫、何故か上手くいく」

と黒々とした太い眉を広げて笑うと朝陽を受けて輝く凌雲の中、円仁は弟子と共に歩き出した。



次回「円仁の旅・後、迫害」につづく

後記
のちの天台宗第三代目座主、円仁。彼の唐での旅路の日記は世界三大旅行記の1つとなる。
















































































































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