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【鑑賞日記】第8回横浜トリエンナーレを観に行った

第8回横浜トリエンナーレ「野草:いま、ここで⽣きてる」 @横浜美術館ほか

3年前の7回展はコロナ禍真っ只中の開催で、自分もヘンに構えて観てしまったという感じはあったのでした。具体的には「負けない、元気を、明るく」といった感覚をどうしてもフィルターとして持ってしまっての鑑賞となっていた。
もとより、アート界においてもコロナの影響は大きく、いまだにその残滓はあるよなあ、と思っています。

そして今回。一応のアフターコロナではあっても、4年間の閉塞が作品になんらか現れているんじゃないかなあ、なんて思いながら出向いたのですが、それは考えすぎでしたね。そりゃそうか。

さて。今回のテーマは「野草:いま、ここで⽣きてる」

魯迅の詩集「野草」から、取られています。一見、この言葉だけをみると、自然的な内容なのかなと思いがちですが、実際にはもっと力強い内容でした。

調和や協調とは逆の視点。闘争や抵抗といったことが強調されており、攻性の強さを感じずにはいられません。
人の生きる世界は常に戦いがあるという現実が前面に示されていました。

その対立は、たとえば、人と人、人と国や体制、また、対自然、対天災と、さまざまな相手であり、逃れられない戦いの様相でもある。

そこには生き抜くための強さがあります。それはある意味やむにやまれず身につけざるを得なかった強さなのかもしれません。
しかしその強さは生きていくためのエネルギーでもある。
そんなことを概括的に示そうという展示だったのかなと感じました。

それぞれの作品をみて思ったのですが、本展は作品それ自体を鑑賞するというつくりになってはいないのではないでしょうか。そうではなく作品が持つ創作意図や生み出された状況などの情報を感じ取ることを優先したチョイスになっているのでは。

ようはアート作品の展示というよりは博物的な展示になっている。

もとより現代アートは、作品そのもののためにつくるというよりは、作品を通じてなんらかの主張を表現しようとしてつくる傾向があります。そう考えると、現代アートの祭典である今回のトリエンナーレは、まさにその常道として組み立てられているといえるのですが、それにしてもここまで振り切ってくるとはちょっと驚きでした(個人的な感覚です)。

個人的に面白いと思ったのは、母親のシリコン人形とその小さな娘を描くグシェコフスカの写真作品。また人面をつけた犬の写真もですが、解説では異質な違和感を描く作品となっていました。確かにそのような感覚はあるのですが、現代日本のサブカルを浴びて育ってきた身としては、過去のさまざまな作品で描かれてきた異形との関係性の文脈で読み取ってしまう。そのほうが魅力的で理にかなっている(?)気がしました。

ちょっと気にかかったのは映像作品が思ったよりも少なかったことです。
昨今の現代アートの展覧会は映像作品が盛りだくさんになる。という感覚が自分の中にはあって、それはそれで個人的に思うところはあるのですが、ともあれそういう傾向ですよね。

が、今回のヨコトリでは映像作品が思ったよりも少なかった(単に自分が無意識的に見落としていただけなのかも)。そりゃ、要所々々にモニタで流されてはいますが、ガッツリ映像をみて!という感じの作品は数少なかった。
そのわけを分析考察するするだけの情報も妄想も足りないので、この点について、いまは感想もいえないかなあ。

というわけでまずは会期のはやいうちに、かけつけ三杯的に美術館とその周辺の作品を観てきたわけですが、正直、初見で各作品の中身まで咀嚼するには時間が足りなかったですね。
横浜美術館会場以外に市内各所に点在する作品もまだ全然キャッチアップできていないし。これからも何回か顔を出していこうと思います。

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