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バトン、有形無形の。

noteの更新が久々になってしまいました。

この数ヶ月何をしていたかというと、平日は主に就活と保活。アンド家事育児。そうそう、週1で再就職セミナーなるものにも参加したり。更には週末は長男のサッカー試合で忙殺されておりました…(息切れ)

9月は比較的時間があったので理想を掲げて情報収集、10月は短期集中型で仕事への応募や面接、保育園見学など。11月に入り仕事も保育園も立て続けに決まり、この12月から近隣の市の公立小学校にて学習支援員として働いています。

私の仕事は主に、担任の先生の授業補助〜休み時間や給食の指導・お手伝いなど。普通学級にて支援が必要な生徒を中心にサポートしています。

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両親共に小学校教員、祖父は中学校教諭を経て校長、親戚関係も教職が多い家庭に私は生まれた。狭い田舎町、何処にいっても誰に会っても「○○先生の娘さん・お孫さん」と言われるのが苦痛だったし、自分の家庭環境や周りの大人達の価値観が偏っている気がして、なんとなく窮屈だった。

早くこの町(むしろ村レベル)を出て都会に行ってみたい!一人暮らししたい!…受験期はそんな事ばかり考えていた。不純なモチベーションが功を奏したのか、希望していた都内の私立女子大に晴れて合格した。

入学後は「仕送りして大学まで出すのだから何かしらの資格か免許を4年間のうちに1つ位取りなさい。食いっぱぐれないようなやつ。」と親と約束していたので、英語科の教員免許を取ることにはした。

でも親に言われるまま、「私もまた教員になるなんて…そんな人生すごくつまらない!」気がして。免許は取るだけで、就職活動では一般企業を中心に受けていた。(そこで地元の大企業から内定をいただき、話は「9月1日の夜、私は逃げた」に繋がる。)

しかし一所に落ち着けない私の性格なのか、星回りなのか、はたまた夫が転勤族だからか…私は人生で8回引越し、パートや在宅を含むと7回転職することになる。転機に合わせて住処を変え仕事を変えてきたけど、旦那は変えないように気をつけたい(笑)

そんな行き当たりばったりとも言える人生の中で、自分にはこれ!と言えるものが何も無いのが、実はいつもコンプレックスだった。

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今回の再就職を一番喜んでくれたのは、地元の母だったかもしれない。35年間教師を続け、退職後の今は私と同じ支援員や、学童保育の先生のパートを掛け持ちしている。

仕事開始を目前にしたある日、小包が送られてきた。母が使ってきた仕事道具の、お下がりが届いたのだった。丸付けや検印に使う赤ペンやスタンプ、各種文房具などが沢山入っていた。短い手紙も入っていた。

"赤ペンは同僚の先生が退職されるときに頂き、母さんも使わなかったので、新品です"

分かるだろうか、ボールペンでも多機能ペンでもなく、先生方がよく持っているあの採点ペン。それを手にした時、何だかフッと、バトンを手にした気持ちになった。

「私もまた教育の仕事に就くなんて」

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つまらないはずだった仕事は、毎日ノンストップで夢中で時間が過ぎる。向いてるかは分からないけど、会社でOLをしてた時よりも、子供に向き合ってる方が私にとっては面白い。

ジャージ上下で出勤し、落ち着きの無い子や感情の起伏が激しい子、甘えてくる子を全身で受け止め、外国ルーツの子とはずっとカタコト同士で話し合い、給食をかきこみ、昼休みはグラウンドで鬼ごっこに駆け回り、トイレに汚物があったらすぐに走る。英語科関係ないよね、ははは。

でもなぜか、ハイヒールで満員電車に乗り、書類作成や電話対応に追われ、昼休みにはお財布を持ってランチに出かけていた、あのOL時代より楽しい。

「お給料はガマン料」なんて昔の人は言ってたけど…楽ではないけど、楽しいって思いながらお金がもらえるなんて、最高ではないか。(担任の先生程の仕事量や責任が無いから、言える面もあるのだろうけど‥)

風の時代が始まるのだという。明るく軽やかに楽しんで、自分の命を世に人に使いたい。

教員一家に生まれたのも、案外悪くないかもよ?って、田舎町でふてくされてた子供の頃の私に、伝えてあげたい。

赤ペンをぶら下げながら、今日も私は生徒達を見つめている。

教壇には立たない、教育の仕事だから。廊下から。教室の片隅から。子供のすぐそばで。

その場所から何が出来るか、日々考えている。



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