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再始動は軽率に

練習をしようと思った

以前参加していたオンラインコミュニティで今年の1月開催された文化祭に出品するため、エッセイを書いて初めて有料で公開した。ずっと形にしたくて、なかなか書けなくて、たくさん人に相談しながら、どうにかこうにか公開したのでした。

まだまだ書きたいことがあり、これからも書きたいことは増えていく。それを少しでも形にすることに慣れたい。翌2月、エッセイを小さく形にする練習をしてみるぞ、という記事を書いた。提案を受けて軽率に動いてみることにしたのです。

前回の記事投稿は、2023/2/3。4ヶ月も経っていました。なんとまぁ。
4ヶ月というと、1年の3分の1です。結構な衝撃を受けています。

今年度から職場をちょっと異動したこともあり、仕事の内容も人間関係も少しずつ変わったりして、目まぐるしかったのは事実。6月も半ばですが、また文章を書きたいなと思える状況になってきたので、焦らずやっていこうと思います。

小さくって何だろう

「小さく」練習するって、どういう意味だろう。私の中には「小さく=短くまとめて公開する」というイメージがありました。

「短くまとめる」と聞くと、私の頭には「要約する」「簡潔に述べる」「少ない文字数で公開する」ということが浮かびます。そして、これらは前提として「具体的な何かを示すために書く」という文脈があるように思えました。

一方、私の常日頃の文章を書くときのスタイルは、ざっくり頭に思い浮かんでいることがあり、それを文章に落とし込むというものです。そうしているうちに、自分が思っていることに気づくのです。つまり、書き始めてしばらく経ってみないと、自分が何を言おうとしているのか自分にもわからない、ということ。

これは、書くだけでなく普段のおしゃべりでもそう。話し始めて、相手の意見や質問を通じて色々と考えながら、最後に自分の意見にたどり着く。最初から明確に意見がある場合もあるけれど、話し始めたら最初に思っていたことが違っていた、という状況が結構な頻度であります。

文字数を減らして、簡潔にまとめるためには、書き始める前に要点が見えている必要がある。でも、書く前の私には要点が見えない。さて、どうしよう?そこで手が止まっていました。

気楽に考えてみる

以前相談をしたときに同席してくれた一部のメンバーと居合わせたので、また話をしてみた。私の手が止まっているということは、私にとって何かが上手く回っていないサイン。今のまま無理しても改善する確率は低いかもしれない。

枠を決めて、骨組みを決めて、そこに肉付けをしていく。そういう形の練習をしようとしていたけれど、不得意を克服する方向性であることもわかりました。それで手が止まっているのであれば、まずは得意を伸ばす形で練習する方が良いのかもしれません。

メンバーのひとりから、「小さく=気楽に、軽率に」と読み替えることを提案してもらいました。文章量や構成を短くまとめるのではなく、思いつくままに書いて、気楽に軽率に公開してみる。これを何度も繰り返す。その中で、また困りごとが出てきたり、もう少しどうにかならないかな?という気持ちが湧いてきたら、改善方法を考える。そういうアイディアです。

私には、こちらの方が合っているかもしれないなぁと感じました。
風呂敷を広げまくって収拾がつかなくなるかもしれないけれど、始める前から心配ばかりで立ち止まっていても仕方ない。気楽に、思いつくままに書いてみる。記事の数も、記事の中に含むテーマも、身についてもいないテクニカルなことを考え過ぎているのかもしれません。なんなら途中で投稿しても良いのかも。

ということで、再始動!

以前、自分がなかなか物事を継続できないことを嘆いていたとき、「間が何日空いたとしても、再開さえすれば即ち継続できているということ!」という言葉をもらったことがある。

たしかに、毎日、毎週、定期的に何かに取り組めることが理想的ではあるかもしれない。それでも、途切れてしまったことや間が空いてしまったことを嘆いていては、同じことへの再挑戦はおろか、新しいことへの挑戦も怖くなってしまいそう。「途切れさせてはいけない」と無意識に思い込んでしまうから。

いつでも立ち止まって良い。休憩していいし、また歩き出そうと思えたら、そのとき一歩を新たに踏み出せば良い。そんな当たり前のことを、何度も忘れては思い出し、また進んでいく。こうして断続的にでも、やりたいこと、やるべきことを前に進めながら、過ごしていければ良いなぁと思います。

気楽に、軽率に、ゆるりと再始動します。
それではまた。

お気に入りのカフェに行くときに使わせていただきます!