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「べき論」を恐れる必要はない

noteを書くときにデフォルトで表示されている「ご自由にお書きください」って文字を見るたびに「人は自由に何かを書くことなどできない」と思う。

 というのはさておき、私が大学1年か2年のころ、まったく教員になるつもりはなかったけど、国文学専攻に来ちゃった以上は将来就職先がちょっと不安だし(この数年後、就活から逃げて大学院に入学するということを、まだ彼は知らない)、念のため教員免許ぐらいは取得しておくか~と思いながら(そして大学3年の4月、介護等体験の申し込みのために出席する必要があったガイダンスに、ガチ寝坊かまして出席できず、結局4年生になってやっと介護等体験をする羽目になるということも、もちろん彼はまだ知らないのである)受講していた「教育学概論」の授業で、最初に課された課題が「教育とは何かを定義しろ」というレポートだった(そして、もちろんだがその後無事に教員免許を取得し、国語教員になるということも、まだ夢想だにしてなかったころのお話)。なんだこの文体。

 私はそこで「教育は定義できない」というように論じた。具体的な内容については忘却の彼方だが、おそらく、校種も違って地域も違えば施す教育は変わるだろうし、そもそも固定された定義を持っていてはいろんな生徒に柔軟に対応することができなくなる。つまり、教育は~~だと定義する必要はない、とおそらく論じたのだ。

 おぞましいほどの典型的なポストモダン論。定義することを忌避することで何かを批判した気になりたい若造のかましそうな論である(その後、講義の最後のレポート課題にて、「この講義を1年聞いたあとに、最初のレポートで書いた教育の定義が変化したか、しなかったかを論じろ」というものが課されたが、私は「変化しなかった」と論じた。お前本当にまじめに授業聞いてたか?)。実際には何も言ってないも同然なのに。

 いや、しかし教員になってからもいわゆる「べき論」、教育が持つ「理念」を構築するということに、私は尻込みをしていた。その理由も、大学低学年のときの私とほぼ同じような動機だ。概念を固定してしまえば、イレギュラーな事態がおきたときに対応できなくなる。教育なんて、生徒一人一人個性が違うのだから、その個性に対応するためにも、「教育」を一つの像に固定する必要はまったくない、と働きながら実感する日々だった。しかし、その考えも、徐々に変わっていく。

 そもそも「教育は定義するべきではない」というものも、いわゆる「べき論」になっている。「教育は定義するべきではない」は「教育を定義しないべきだ」と同じになっている。つまり、べき論から逃げているようで、私はべき論から逃れられていなかった。教育について何かを語るとき、私たちは必ずべき論を経由して語る。極めて簡単な、誰しもが見つけやすい落とし穴に、私は気づいていなかった。そして、やっとその穴に落ちてから、落とし穴の存在に気がついたのである。

 その後、教員として働く中で、ジェンダー、発達・学習障害、教育の中の隠れたカリキュラム、そして文学教育について学んでいく中で、やはり「べき論」を構築しなければならない、という結論に至りつつあった(やっぱりまだ逃げてる)。児童・生徒の主体性や人権を最大限に尊重しながら、それでいて外圧的に技術を教え込むというダブルバインドを本質的に孕んでいる「教育」という営みの中で、私たち教員は何を優先し、何を妥協しなければならないのか、ということを考えることは必須だ。理念なき教育は、ただのレッセフェールになるか、それとも単なる暴力になるかのどちらかだ。矛盾した教育という営みを、実りあるものにするためには、その矛盾した本質に対置させる「べき」理念が必要だ。

 そして、構築された理念は、徐々に変容していく。実際に児童・生徒と触れ合う中で、そして教育学、心理学、教科教育法などを学んでいく中で、一度構築された理念は相対化され、補強され、また新たな理念を生んでいく。ここで大切なのは、新しい理念が生まれるためには、もしくは理念がアップデートされるためには、更新されるべき理念が設定されていなければならない、ということだ。固定された理念は暴力を生みうる。しかし、新しい理念が生まれるためには、その土台となる理念がなければならない。

 新しい理念を、さらに深まった理念を生むために、理念は必要だ。そう思えば、理念は恐れるべきものではなくなるのである。


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