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リンネルと上着

舗道の下で
水が流れている音がする
水の音はやがて
男の子が風呂場で歌っている声や
夫婦喧嘩の声や
私が棄てた声に
聞こえてきたりする
音は
下水処理場に集められ
微生物で分解され
ろ過され
消毒されて
海に放流される

地下鉄を降りて
改札口の方へ
ホームの階段を上ってゆくと
ピアノの響きが聞こえてくる
仕事帰りの銀行員や
授業を終えた予備校生や
菓子屋の社長が
思い思いに
ピアノを弾いている
その響きの全てを聴き取ろうと
立ち止まる
忘却を振り払うように
霧が窓の外で晴れてゆく

カール・マルクスによれば
20エレのリンネルは
1着の上着に値する
私が着ている上着の
右ポケットにはパン屑が入っている
希望と取り換えてもいい
左ポケットには私の記憶が入っている
あらゆる絶望と取り換えてもいい
私の上着で交換できるものは
なにも無いにしても
目の前のピアノの響きは聴くに値する
内ポケットには
労働という抽象が入っている
葛藤という具象と取り換えてもいい

改札口の向こうで
百貨店の大時計が鳴る
閉店を告げる鐘が鳴る
言い逃れの方法しか発明しなかった
みっともない者たちに牛耳られている
死にそこないの秩序の
最後を告げる鐘が鳴る
働くことで
自分自身に還ることができる
そんな都市の広場で
鐘は鳴る
夕暮れ時に
鳴り響く

花の色が美しくなる
七月の夕暮れ時に
鐘は鳴り響く

 (詩集『月のピラミッド』第5章「再生のための十篇」より)


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