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なぜあの場所を続けたいと思ったのか

極めて個人的な、
偏った、
わかりづらいかもしれないけど素直な言葉を残しておきたくて
これを書きます。

とあるお店を残すためのクラウドファンディングをしていたのですが、筆者は「なぜその場所を続けること選択をしたのか」というお話です。


なぜ続けたいかの理由は、
「世の中からあいまいな場所がなくなっていくことが哀しいから」


お店のコンセプトである「逃げること」への思いはこちらに書いてしまったので、もうひとつ俯瞰した視点からのお話を。

「あいまい」が居場所を追われているような気がします。
あいまいの生息域が日々縮小していく感覚。

何かを計画したときに、あいまいな部分があると指摘されます。
矛盾があればなおさらです。
どうやら社会は理解可能なものがお好きらしい。

曖昧「あーあ、なんだか住みづらくなっちゃったな。」

曖昧(あいまい)
"内容がしっかり捉えにくく、はっきりしないこと。二通り以上に解せられること。"


捉えられないから
触りたくなるのに

はっきりしないから
戸惑って、
探したくなって、

問いかけた時の返答が予測できないから
また話しかけたくなるのに

「わかってしまった世界に、何かたのしいことってあるの?」

曖昧を辞めた世界は四角くて
そういうことか、と咀嚼して、
解説を素早く嚥下したら「さあ次へ」

これは社会のために良い行動です。
ここは写真を撮る場所です。
この部分は今回のテーマを表現しています。
「理解しました。そのように行動します。」
「了解しました。そのように感じとってみます。」

非常に合理的で親切。でも、

わたしはもっと、
複雑怪奇であいまいな世界に翻弄されていたいんです。

そして、そんなあいまいを護りたい。

「なんで?」

『なんでって聞かないで。
 わたしもわからないんだから。』

後追いで正当化しようと思っても、
理路整然とした言い訳もできないくらい、
「よくわからないけど、そうすることにしたんだ、」っていう

論理も追いつけない速さの気分、なんとなく、閃き、その場の流れ、
そういったものたちの積み重ねで紡がれて、
原因も結果も設計されなかったもの。

それゆえ因果のルールから解放されていて、
矛盾すら肯定できてしまう。

そんなあいまいなものに尊さを感じてしまいます。

あいまいなものや矛盾していることって
なんでダメなんだっけ。

企画書に収まらないものは、
文章で説明できないものは、
意味や解釈が多重に可能なものは、
起きた後でないと人々が理解できないものは、
あいまいは、
社会に植えづらいと感じ続けてきました。

非あいまいは凛としていて、
時として結論から生まれているから
何度なぞっても同じ軌跡を描きます。

わかりやすくて説明もしやすい。
どこが見どころか。どこが面白いのか。どこに意義や価値があるのか。
はっきりしています。

一方、あいまいは常に揺らいでいるから
いつまで経っても結論は出ない。
出たとしてもまた移ろいゆきます。

あいまいな時間の中で起こることは、
ささいな心の揺らぎかもしれない。
絶望と希望が交互に訪れるだけかもしれないし、
罪悪感と安らぎの無限リフレインかもしれない。

でも、あいまいには、
しゃがんでずっと見つめていたくなる ような
寝転がってじっと目を閉じたままでいたくなる ような
寄りかかってただ匂いをかいでいたくなる ような
語るたびに意味や解釈が変わってしまう ような
そういう余裕-猶予-意味の揺らぎ-未知-ふしぎがあります。

そして、あいまいなやわらかい心であったからそっと受け入れられた、
たったひとつの気づき、
たったひとつの言葉が、
たったひとりの人が、
次の物語を連れてきてくれることがあります。

征服されてもいいと思えるくらい、曖昧を求めています。
わたしにとって、それはこの世界の
唯一の光でもあるから。


期日までにフォーマットに合わせて、配点に留意して理由を記述してからでないと実装が承認されない世界以外の選択肢を残しておきたいです。

あいまいを許可する場所がなくなってしまったら、人々はあいまいを愛する心を忘れてしまいそう。あいまいは悪いことじゃない。


だからあの場所が好きです。続けたいと思いました。

もう少しだけ、一緒に逃げてみることにします。

逃げBar1日店長・サカキミヤコ



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