「読む」ことと「歌」について

今回は簡単なコラム的なものです。

現代我々が一人で本を読む時なり、テクストメッセージを読む時、なにか意図がない限りわざわざ口に出して読むことはないはずである。

例えば、ある日のデートの翌日、ドラゴンクエストをプレイしている兄弟姉妹がいきなり「ゆうべはお楽しみでしたね!」と言い放ったらぎょっとするだろうし、ポケモンをプレイしている父親が突如「おじさんの金の玉だからね!」とかいい出したらしばらく口をききたくなくなること請け合いである。

現代人は基本的に何か意図がない限り文章は黙読する。ところが、こうした習慣は明治時代からであり、かつては一人で読むときでも音読をしていた。

更に時代を遡った場合。平安時代の物語作品の場合どうだろう?

玉上琢也氏は『源氏物語評釈』の中で、物語の享受のされ方として、複数人で集まり、一人が音読するのを聞いていた、といったものを想定している。所謂「源氏物語紙芝居論」である。

この享受の仕方が実際に主流だったかどうかは現在手元に資料がないため保留しておくが、「物語りす」といった動詞があり、こちらが現代でいうところの「世間話」的な話をするといった意味で用いられている以上、説得力のある説明であるように思われるのである。

さて、『源氏物語』から時代が変わり、武士の世の中になってから『平家物語』が出てきた。『平家物語』は琵琶法師が弾き語りをするわけである。例えば冒頭部分

祇園精舎の鐘の声
諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色
盛者必衰の理をあらはす

を考えてみよう。

「祇園精舎の鐘の声」という末永く鳴り響くであろうおめでたいものが、「諸行無常」という、滅びの響きを内包している。

「沙羅双樹の花の色」という、釈迦が涅槃に至った素晴らしいものが、「どんなに盛んなものでも必ず衰え、やがて滅んでしまう」といったこの世の理を表す。

対句によってリズムが良いだけではない。耳から入ることによって、素晴らしいものと恐ろしいものとのギャップが目の前にありありと浮かんでくるだろう。

ここまで書いてきて何がいいたいのかというと、古典文学作品は「目からというよりもむしろ耳から入る」ものだった、ということである。

書いてある内容は変わらない。ところが耳から入るものと目から入るものとではまるで情報の質が違うだろうし、目から入るものであっても写本と版本と現代の活字本ではまるで違うわけである。

さて、現代読む古典文学作品とかつての古典文学作品との違いを明示した上で、「歌」はどうであろうか?

音読するとしたら、恐らく歌は歌としてリズムをつけて読んだのではないだろうか。歌が生活の中に入り込んでいる人々が音読するのであるし、逆に地の文と同じように読んでいる方が不自然である。

となった時に、現代の我々では軽く読み流してしまうかもしれない歌が地の文に比べて目立つと考えるべきだろう。

作り物語のはじめである『竹取物語』から、和歌は場面転換の際に用いられてきた。地の文と和歌にはある程度の隔たりがありつつも、地の文の要素を含んでいなければ和歌が浮いてしまう。

こうした微妙な緊張関係を考えた時、物語における「和歌の詠みぶり」は登場人物のキャラクターを形象するのに、現代の我々が思う以上に重要なファクターだったのではないか、と思うわけである。

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