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民主主義と、非常に面倒で実りの少ない割に避けては通れない「対話」...

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上記タイトルにもあるように、いわゆるシルバーデモクラシーと呼ばれる高齢者世代の政治的意見ばかりが通りやすい現状について、経済学者の成田悠輔さん、タレントのあおちゃんぺさんが提起した話についての記事です。成田さんが「高齢者は(社会的に)切腹/身を引くべきだ」という意見で、あおちゃんぺさんが「定年退職するような年齢の人は選挙権を無しの方がいい」という意見。共に、人口比で考えれば高齢者人口のほうが若年/壮年人口よりも圧倒的に上なのだから、最終的には数が物を言う選挙制度では有利過ぎる、という主張。それ自体は首肯する人も多いんじゃないかと考えます。

実際年金制度にしろ医療の問題にしろコロナ禍でのロックダウンにしろ、高齢者優遇と言われてもしかたない政策が続いているのはまぎれもない事実で。選挙で政治家が選ばれている以上、有権者の多数派の意志を政治家が優先することは民主政の必然とは言えましょう。熟議だマイノリティの人権だとなんのかんの言っても、結局は数が多い方/声の大きい方の意志が優先されるというのが人間社会の現実で、だからこその「切腹/選挙権返納」という主張なんだと思います。若い人の立場に立って考えれば当然の意思表示と言えましょう。

ただですねえ。自分自身が昔だったら定年を迎えて年金をいただいていた歳なんで思うんですが、年寄り、そこまで自分勝手でもないし若者のことより自分のことを優先するわけでもないんですよ。若者が置かれている現状を正確に理解すれば、若者の意見にも耳を傾けると考えますし、それなりに賛同を示すと考えるのですよね。今現在高齢者でいる人達には家族がいる/いた人達が多数派ですから「若者の問題は、あなたの子や孫の問題だ」と言われて「しらんがな」と返せる人は少ないと思うんですよね。独居老人とかしている人達でも口ではそういうことを言ってしまっても、腹の中では理解くらいはする。理解をしてくれれば、それは選挙の投票にも影響するでしょう。シルバーデモクラシーが抱える問題は個人主義の問題というより、意思伝達の問題/現状認識の問題ではないか、と考えるのですよね。

高齢者に限りませんが、人間は基本「自分が見たいと思うものを見て、知りたいと思うことしか知ろうとしない/認知的不協和となる話は避けようとする」もののはずです。誰もが思い至ることがあるかと。高齢者にとっては、自分達が若い頃と現在の若者が置かれている状況がまったく異なるということは、認知の外のわけです。「若者は経済的に苦しい」とか言われても「俺達だってそうだった。今の若いものはスマホもあるし色々なサービスも充実している。何が不満だ?」とかかなり真面目に思ってしまう。社会が経済成長期にあった頃と30年も停滞が続いている現状が同じなわけはないんですが、そこがわからない。高齢者の基本的な情報源であるTVでもそんな話はほとんど出ませんからね。TVも視聴者におもねるばかりで。こんな国に誰がした、と言われると耳が痛いんですが。

ただ、うずくまっていて泣いていてもはじまらないわけですから、この現状を変える必要があるわけで。若者が物理的な反乱を起こして高齢者を切腹に追い込んだり選挙権を取り上げたりすることも道かもしれませんが、その前にやることがあるんじゃないか。

それは対話ではないか、と考えるのですよ。

多くの人が忘れていますが(苦笑)、私達の住む日本国はかろうじて民主主義国で、選挙権の有無に関わらず誰にも対話のチャンスはあるわけです。昨今はキャンセルカルチャーだ誹謗中傷だ「なぜ言論の機会を与えているのか」とか言って人様から発言のチャンスを奪おうとする輩が跳梁跋扈していますが、それでも誰もが職場を追われたり社会的に抹殺されたりするわけでもない。全体主義国家よりはマシな状況なわけですから(それはそれでどうかとは思う話ですが)、声をあげられる人は声をあげて、その声に対する反応には対話を持って接するしかないわけです。それが民主主義国家の/民主政社会の基本的なルール。
もちろん、声をあげれば賛同の意見ばかりではないでしょう。というか、むしろ逆の場合が多いかもしれない。ちゃんとした反論ならまだマシな部類で、馬鹿にする人、「読むに耐えない」とか言ってくる人、嘲笑う人が大半かもしれません。

「それでも!(CV:内山昂輝)」

声をあげ、意見を伝えて、賛同者を一歩一歩増やして、自分達を少数の「異論を述べるもの」から、多数派は困難としても一定の社会的に認められる勢力、意志を持つ集団とするしか道は無いわけです。いやまあ、正確には血と暴力で他者に意志を強制する修羅への道も無いわけではないですが、それは目的達成の前に潰される可能性が高い道でもありますし、万一成功しても次の世代から同じ攻撃を受けるであろう道でもあります。まさに修羅道。

それに「言論をもっての道」にしたところで、本質は大して変わらないものです(苦笑)。物理的な暴力を用いるか言語という武器を用いるかの違いだけで。「対話で解決をするべきだ」と叫ぶ人達が意外に暴力的な姿勢をあらわにする謎の答えがここにあります(笑)。やはり「何事も暴力で解決するのが一番だ」ということで。ただ、物理的に倒されると逆襲するのは困難ですが、言論はまだやり返しやすいですし反撃の機会も温存されますから、やはり最終的には言論の暴力のほうが優れているのではないか、と考えるのですが、どうでしょうねえ。

いささか物騒な話になってしまいましたが、人間というものは案外不安定というか、必ずしも意思がはっきりした存在ではない。他人の意見や行動にまったく影響を受けずに常に我が道を行く、という人はごく少数派で。SNSを見ていると「謝ったら死ぬ病」に冒されて意見を絶対に変えようとしない人を多々見かけますが、それは「意見を変える=信頼できない人と見られる」と恐れるからで。結局は、他人の視線に左右されているわけですよ。人間はそもそも社会的な動物ですから、他者の意見/視線を絶対的に無視し続けることはできない。大概の人はそこまで自分の意志にコダワリを持たないものでもあるわけですから、大勢が変わればそれになびく。そういう光景を多くの人が見ているのではないでしょうか。

対話による勢力作りが大切、という話は結局はそういうことで。自分達の意見を通したからったら「自分達の意見のほうが正しい/望ましい/利益になる」と多くの人に考えてもらう/思ってもらう道を探るのが、迂遠なようでいて実は近道なのだろうと考えます。まあ少なくとも物理的暴力でできることは暗殺がせいぜいですし、「敵の頭を撃てば戦争は終わる!」みたいな展開は現実には起きないわけですしね。

あるいは「民主主義は面倒臭すぎる。俺は他の政治体制を目指すぜ!」と考える人も多いかもしれませんが、残念ですね(笑)、その道を探るにしても結局は対話と相互理解を通じて仲間を増やして次の街へ、という道しかないわけですよ。これを「詰んでいる…」と考えるか否かは、これを読んだあなたの選択次第です。健闘を祈ります…

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