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断片:信仰とリベラル

Twitterでは色々と(主に文字数(笑))制約が大きいので、noteの場での返答になってしまいますが。宗教に関してリベラルである、というよりは「信仰に関してリベラルであろうとしている、というか、そうせざるを得ない」というのが実際のところで。まあ、住んでいる土地が浄土真宗に対する信仰厚い土地で、にも関わらず曹洞宗の大本山永平寺があったりする福井県で、それでいて自分(達)の信仰がキリスト教だ、という複雑さも大きいんですが(苦笑)。

日本では、というよりは無宗教が増えていっている欧米でもおそらくは一般的な考え方ではないのだと思いますが、そもそも信仰とは「自分から信じるというものではなく、信じさせてもらうもの、あるいは、信ずることが定められているもの」だと考えるのです。これを突き詰めていくとカルヴァンが主張した「予定説」に繋がって、それがさらにはマックス・ヴェーバーが記したプロ倫、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」へと続いていくのですが、それはまた別のお話(笑)。

「神を信じる」という姿勢は本質的には間違いだと考えるのですよね。「神を信じる」という言葉の主語は「私が」であり、それは「神を信じるか信じないかを決定するのはである」という姿勢/思考が背景にある。カルヴァンが批判したのもまさにそこで。を神の上位概念に置いている。しかし人間が、というよりは救いを求める主体がその神より上位に属する、なんてことは矛盾も甚だしい話で。神様より自分が偉いなら自分を救うのは他ならぬ自分自身であるはずでしょう。逆はありえない。少なくない人達が信仰に迷うのは、こういう矛盾に対して無自覚で、だからそれを放置してしまうからなんじゃないか、と思います。馬鹿ですね。

では信仰する/しないを決めるのは誰か。素直に考えれば神がお決めになる、と捉えるのがシンプルな発想でしょう。私達は神に「神を信ずる」という奇跡を成していただくことで信仰者となり、それが幸せにつながる、という発想。という宿痾や煩悩から解き放たれることで悟りへの道に繋がる、とでも書けば仏教徒の皆さんにも理解しやすいのではないかと期待します。とはいえ、西洋哲学の系譜はもちろん、日本人でもなかなかこういう発想を直観的に理解できる人は少ないんですがね。「私という業」はそれだけ深いということなんでしょう。

「信仰する/しない」が神のご意思に基づくものであるなら、誰かが何を信仰するか否かをお決めになるのもまた「神のご意思」なわけで。そのことに対して人間にすぎない我々が「あーだこーだ」というのは、むしろ不遜極まりないことなんじゃないか、と考えるのです。私がキリストの救いを信じることになったのはキリストの意志であり私の意志ではない。ならば、別の人が信仰に与らないのも神のご意思そのものであり、私にはそれに対して意見を言う権利はない。まして批判なんぞもってのほか。こういう考え方と姿勢が結果的に「リベラルな姿勢」に見えるんじゃないですかね。

ただ考え違いをされると困るのですが。信じる/信じない、は神がお決めになることであっても、それが誰か/何時かということもまた我々人間には伺い知れぬことで。私達自身の行動が契機となって信仰への道が開かれるのであれば、やっぱり布教/伝道は必要なことなわけです。伝道も含めて「神のご計画」なわけで。ヴェーバーがプロ倫で主張した「資本主義の精神」ですね(苦笑)。私達人間は未来をぼんやりと予測することはできても見通すことは不可能なわけで。数秒先の未来すら見ることができないわけですから、社会全体に及ぶような因果が見えるわけがない。私達はやはり「やるべきことをする」という姿勢が必要であり大切なことなのではないか。

人によってはこういう姿勢を「自分の意志がない」と批判するでしょう。使い方間違っていると思いますが(苦笑)「他力本願だ」とおっしゃる方もいます。他力本願の本来の意味からすると正しい姿勢なんですが(笑)。人間が主体的に動く、という考え方は啓蒙主義以降の西洋だけではなく、おそらく東洋においても「好ましいもの」と受け止められる考え方だからでしょう。孔子先生の教えも突き詰めていくとそこに通じていきますしね。私から見ると「動物の一種にすぎない人類種には過ぎた/傲慢な考え方だ」と見えてしまうんですが。人間が主体的に動くことで何かを為せるなら、それは人間の行動に全ての責がある、という話でもあるわけでしょう。辛すぎる考え方だと思うんですがねえ。新自由主義そのものじゃないですか(苦笑)。

リベラリズムという考え方は啓蒙主義から生み出された思想ですから「人間という主体には己のことを己で決める権利がある」という発想を基盤においている、と考えるのです。そういう意味では私とは相反する考え方で。「己の意志など無い」とまでは言いませんし、それを言ってしまうと「己の意志が在ることの意義」を問われると思うので難しいんですが、あえて言語化すると「己の意思は存在するが、それと同列に他者の意思が存在し、その上位の意思もまた存在する。この構造に目を向けることがシン・リベラリズムではないのか」と考えるのですよ。フロイトや行動心理学等の知見で「主体」というものが揺らいでいる昨今ですから、「信仰」という概念についても色々とアップデートというか再定義が必要なのかも知れませんねえ…

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