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「平安時代の後の藤原氏ってどうなったの?」という疑問を解決します。

こんにちは。こんばんは。

学校の勉強や受験勉強、趣味で歴史の勉強をしていると、「何でこうなるの?」と疑問に思うことがよくあると思います。私は高校の時に日本史を選択し、受験では日本史の共通テストを解き、大学に入ってからも歴検一級の日本史にを受検するなど、長きに渡って日本史という科目と対峙してきましたが、勉強するなかで疑問は山のように積みあがっていきました。

今回は私が抱いた数ある疑問のなかの一つについて調べ、できるだけ簡潔にわかりやすく解説をできればと思います。暗記さえすればテストは乗り越えられるかもしれないけど、疑問に思ったことを追求してはじめて、日本史のおもしろさや奥深さに気付けると思います。


今回の疑問

日本の歴史の中では、特定の「家」が国の権力・軍事力を握り、天下の頂点に君臨することがあります。その中でも有名なのが「藤原氏」でしょう。中大兄皇子とともに大化の改新を進めた中臣(藤原)鎌足に始まり、飛鳥・奈良・平安時代の長きに渡り朝廷の政治の中枢的役割を担い、藤原道長・頼通の時代に権力の全盛期を迎えました。

しかしその後、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて天皇家の家長が政治を行う院政が台頭したため、藤原氏は次第に力を失い、幕府が建てられ武士の世になると、藤原という名は歴史上にあまり登場しなくなります。

特に学校の教科書では鎌倉時代以降藤原氏の人物はほぼ見当たらず、
「どうなってしまったのだろう?」
と疑問に思う方が結構いるのではないでしょうか。

今回は全盛期を迎えた後の藤原氏がどうなっていったのか、現代にいたるまでどんなことをしていたのかを簡単に解説しようと思います。

藤原氏の子孫は今もいる⁈

道長や頼通の後ほとんど教科書に姿を現さない藤原君たちですので、「いつの間にか滅亡してしまったのでは?」と思ってしまう人もいるかもしれません。が、実は藤原氏は滅ぶことなく、その子孫は千年以上の時を越えて今もたくさんいらっしゃいます。

最も有名な子孫の一つが「冷泉家」と呼ばれる家系です。

冷泉家は日本で唯一続いている公家の家柄として知っている方も多いかもしれません。平安時代の文化や風習を後世に残すために努力されており、毎年和歌を詠む「歌会始」を開いたり、冷泉家に伝わる書物や屋敷の保存を行っています。

そんな冷泉家も実は藤原定家などを祖先とする家なのです。他にも、藤原の血を受け継いでいる現代の人間はたくさんいると思われます。

では平安時代以降、約千年の間何をしていたのでしょうか。
それを説明する前に、ある事を知ってもらわないといけません。

鎌倉時代以降はもう藤原○○とは呼ばれない⁈

冷泉家を紹介した際に、あることを疑問に思った方はいるでしょうか。
それは「冷泉家は藤原氏の子孫なのに、藤原家と名乗らないの?」という疑問です。この疑問が実は鎌倉時代以降の藤原氏を理解する上で重要になってくるのです。

当たり前に聞こえるかもしれませんが、平安時代の終わりまでは、藤原氏の家に生まれたら、他の家に養子に出されない限り、藤原の姓を名乗ります。つまりその人は藤原○○と呼ばれるわけです。
しかし、平安の末期くらいから、その呼び方が変わり、藤原と呼ばれないことが増えていきます。これは名前が変わったというわけではなく、本名はずっと藤原のままですが、呼び方が変わったとイメージしてください。

少々分かりづらいと思うので、当時の日本を学校に置き換えて考えてみましょう。

まず、平安時代の日本の政治の要職についているのはほとんどが藤原氏出身者ですから、学校の先生の9割が名字の同じ藤原先生状態です。こんな学校で職員室に行って先生を呼ぶ時に、「藤原先生はいらっしゃいますか?」と聞いてもみんな振りむいちゃいますよね。それを防ぐためには、「二列目の藤原先生」とか「金髪の藤原先生」と呼ぶしかないありません。そしてそれが次第に省略されて、「二列目先生」「金髪先生」という呼び方になるかもしれません。

平安時代でも似たようなことが起きたと想像してください。そうすると、元々の名前が藤原でも、次第にその名前では呼ばれなくなっていきます。そこで平安時代末期に誕生したのが、近衛家・鷹司家・九条家・二条家・一条家の「五摂家」と呼ばれる家です。とは言っても、みんな藤原の子孫であり、住む場所などによって呼ばれ方が変化したというわけなのです。

こういう経緯を考えると、鎌倉時代以降に藤原氏が出てこないのも不思議ではありません。出てきたとしても、それは違う名字で登場しているのです。

鎌倉時代以降に活躍(暗躍)した藤原氏の人物

では、鎌倉時代以降歴史に登場する藤原氏出身の人物はどんな人がいるのでしょうか?

改めて、五摂家(近衛・鷹司・九条・二条・一条)を思い出してみましょう。
この名字を持つ有名な歴史上の人物は思い当たりますか?
今回は何人か有名な人物を紹介します。

・九条兼実(くじょうかねさね)
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した人物で、関白を務めるなど京都の政治の中枢にいました。一時期は源頼朝と手を組み、頼朝が征夷大将軍就任を実現した立役者です。しかし、その後は婚姻政策を巡って頼朝と対立し、失脚してしまいます。兼実の弟、慈円は天台宗のトップ、天台座主に就任し、後鳥羽上皇の院生の補佐も行ったり、「愚管抄」という歴史書も執筆しました。

・二条良基(にじょうよしもと)
二条家の5代目当主で、南北朝時代の公家・歌人です。「菟玖波集」という准勅撰連歌集を編纂し、連歌を大成したことで有名な人物です。連歌とは、複数の人で上の句(5・7・5)と下の句(7・7)を交互に詠み、一つの長い歌を作り上げるという形式です。のちに上の句だけが切り離され、俳句が登場する原点でもあります。

・一条兼良(いちじょうかねら)
室町時代の公家・学者で、関白太政大臣を務めた一方、「樵談治要」という室町将軍への意見書を書いたり、有職故実(朝廷の年中行事について細かく書かれた書物)を執筆するなど、現代に残る様々な書物を記した文筆家の一面もありました。

・近衛文麿(このえふみまろ)

近衛文麿は昭和時代の政治家で、3度総理大臣に就任し、彼のもとで日本の戦時体制が整えられ、アジア・太平洋戦争への道を進んでいきました。藤原氏の子孫で五摂家の筆頭である近衛家出身ということもあり、当時の庶民からの人気は高かったと言われています。終戦後は戦争責任を問われ、A級戦犯となり、死刑が執行される前に自殺をしたとされています。

この中でみなさんの聞いたことのある人物はいたでしょうか?
高校でちゃんと日本史を勉強した方なら聞き馴染みのある名前かもしれませんが、誰もが知っているような、超有名な人物はいないと言えるでしょう。

この背景にはやはり平安時代末期から始まった摂関政治の衰退が原因でしょう。道長・頼通の全盛期を過ぎると、権力は次第に天皇家の家長である院に移って院政が開始されます。鎌倉時代に入るとその権力は鎌倉幕府に移り、明治時代までは武士が政治の実権を握ることになりました。そのため、摂政・関白を務める藤原氏の権力は弱体化し、ほとんど院の言いなり、将軍の言いなりになってしまいます。そのため、鎌倉時代以降の藤原氏の当主は、政治の世界で名を残すよりも、文学や芸術に傾倒し、和歌を書いたり、日記や歴史書を書くことに力を注いでいました。

そのため、国の中心で強大な政治力や軍事力を誇った武士達に比べると、どうしても無名な人間が多いのが実情です。 

とはいえ、政治の世界からはほとんど退いてしまった後も、藤原氏の人物は文化や芸能の発展に寄与しており、この国の歴史においても重要な存在だと言えるでしょう。

最後に

いかがだったでしょうか?
このように藤原氏は鎌倉時代以降権力をほとんど失いましたが、文学や文化、芸能の発展に寄与し、その子孫は今もたくさんいらっしゃいます。

もしかすると、あなたも遡れば藤原氏と繋がりがあるかもしれません。
余裕のある方は、一度家系図を調べてみることをお勧めします。きっと面白い発見がありますよ!

参考文献


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