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作者不明の洋館。山本有三記念館

みなさまご機嫌よう、もーやんです。
本日は三鷹散歩におすすめな洋館をご紹介。ジブリだけではないのです(*´ー`*)

積み上がる石壁は暖炉

三鷹駅から徒歩5分くらい。戦後、進駐軍に取られてしまうまでの10年間『山本有三』が住んだお屋敷です。

現在は「山本有三邸と接収」という企画展が行われています。

◯山本有三とは

『路傍の石』の作者として知られています。
まだ読んだことがなかったのですが、未完の小説としては日本で一番有名だそう。初めは朝日新聞で連載され、その後主婦の友にて連載しますが断筆。

◯カタカナ→ひらがなにした人

なんと言ってもすごいのは、現代文のスタイルを決めた人である、ということ。

山本有三の功績として語り継がれるのは『ふりがな廃止論』。難しい漢字やカタカナを多用した文語体の『日本国憲法』を、誰でも読みやすい漢字+ひらがなの口語体にした凄い人です。

その他、小学生が習う漢字をギュッと絞り、誰でも本を読めるように苦心しました。『国語の教科書』も山本有三が始まり。

また当時、日本はGHQから「日本語をアメリカ人も分かるようにローマ字にしなさい」と勧告されていました。なんと、もしかしたら漢字もカタカナもひらがなも消えた可能性があるのです。

言葉の消滅=文化の消滅。

当時の日本は、負けたながらも頑張って文化を守り抜きました。
なお、GHQの「日本語は難解すぎる」という指摘が、上述の流れにも繋がっています。

機械変換が発達した今、なーんにも気にせず難解漢字も使いますが。

その昔、『国民全員が文章を読めるように』と平易な言葉の普及に努めたからこそ、現在の「漢字・カタカナ・ひらがな」を使いこなす民族として発展できたのではないでしょうか。

山本が執筆のために改装した和室

○進駐軍に取り上げられた洋館

お屋敷は、大正時代に建設された設計者不明の洋館。
随所に当時の流行りやこだわり、工夫が認められ、研究者が唸っています。

昭和11年に家族で移住した山本有三ですが、その10年後には進駐軍に接収されてしまいます。

当時、めぼしい家は「明日には出ていけー!」とばかりに追い出され、住む家が見つからないまま立ち退く人々も居たそう。

軍人達は土足で家を踏み荒らし、5年後に返還されると見るも無残。
壁は好き放題ペンキが塗られているし、床も絨毯も傷んで修繕費がかさむばかり。山本有三は無念にも屋敷を寄贈し、住まいを移しました。

今回の企画展では、娘の手記や当時の記録から『接収』の緊迫感や家族の状況をリアルに窺い知ることができます。

○素敵なお庭と建物

中庭に広がる緑の中、写生にいそしむ人々もちらほら。散歩や憩いの場として、木漏れ日と花々が美しい場所です。

建築なんて素人ですが、種類の違う暖炉や天井の廻縁など見て「うわー、すごいわぁ。きっと高そう」と感心するばかりでした。( *´艸`)

ちょっとお散歩、というときにぴったり。
日常を離れたいとき、いかがでしょうか♡

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