見出し画像

空を泳ぐ(小説)

※完全なフィクションです。以前書いた「秘密のプール」という小説の、別人物視点からの物語となっております。

こちらも読んでいただけると嬉しいです。



今年の夏はなにかが違う。予感は確信へと変わっていた。

1.

わたしの学校ではどういうわけか、毎年水泳大会がおこなわれる。学年ごとに25メートルを指定の泳法で泳がされるのだ。

中3の今年は、去年と一昨年とは大きな違いがあった。

1年生はクロール、2年生は平泳ぎ。そして我らが3年生はなんと背泳ぎで25メートルを泳がねばならない。記録もとる。さすが田舎の中学、とあきれ果ててしまう。なんて無駄で馬鹿馬鹿しい慣習なんだろう。

「成績優秀で運動神経抜群。優等生の水野あかりにとっては水泳大会も消化試合って感じなんでしょ?」

同じクラスのたなちゃんが茶化すように聞いてきた。ホームルームが終わって、それぞれが帰り支度を始めた頃だった。

引退直前の部活動に精を出す者、詰め込まれた塾のスケジュールに追われる者、そして最後の中3の夏を思いっきり楽しみたいという、現実にまだ抗っていたい者。それぞれの思惑を胸に、教室で生徒たちは散り散りになっていく。

たなちゃんも、わたしと同じ帰宅部の女子だ。家が近いのでいつも一緒に帰る。ショートヘアが似合う、正直羨ましいほど顔が整っている子だ。

それにしてもたなちゃんってば、嫌なことを思い出させるな。

「今年は違うの。ああ、また思い出しちゃった」

わたしは背泳ぎだけが大の苦手なのだ。陸上は短距離も長距離も得意だ。球技もだいたいすぐにコツをつかむことができる。水泳もクロールと平泳ぎなら教わることなく見ただけで自分のものにできた。

でも、背泳ぎだけは何度やってもダメ。

まず、水上で仰向けになるのがとっても怖い。その上、いつ頭をぶつけるか分からないゴールまで手で水を掻き続けるのだ。正気の沙汰じゃない、と思う。でも当然、水泳大会は種目の変更なんてできない。

「あかり、明日も一緒に学校いこ」

「たなちゃんゴメン、明日は用事があるんだ」

明日の朝は行ってみたい場所がある。これにはさすがにたなちゃんを付き合わせるのは申し訳ない。

2.

それにしたって、なんでこんな山のてっぺんに学校なんて作ったんだろう。

次の日の朝。早起きしたわたしは、けもの道を掻き分けながら思った。かろうじて道と呼べる道はあるが、こちらは正門とは反対方向なので、降りてくる人はいない。

水が流れる音がする。

枝が足に擦れ、ソフトな掻き傷が生まれる。ここまでしてわたしが来たかった場所―――。

小さな滝が、小さな池を作っていた。

わたしは木陰にカバンを置き、ためらいなく制服を脱いだ。すでに水着を着用しているので、あっという間に着替えは済んだ。

つま先で透明な液体に触れる。

「つめた」

わたしの声は、ドドドドという滝の音にかき消された。

思った通りだ。

その小さな滝壺は、深さもちょうどよく波も少ないので、泳ぎの練習に適していた。広さだけは少し物足りないが、大きすぎるとかえって事故の危険が高まる。

学校の裏のけもの道をしばらく歩くとここに繋がることを知ったのは最近だ。1人で背泳ぎの練習がしたいと思い、誰にも見つからない場所を探していた。そんななか見つけたおあつらえ向きのスポットというわけだ。

軽くバタ足で泳いでみる。慣れたものだ。仰向けにさえならなければ泳ぐことは簡単だ。つい楽しくなって、パシャパシャとしぶきを上げながら、真夏の汗ばんだ体を思う存分冷水で清めた。

その時、背後で音がした。パキリと枝を踏む音だ。

「わっ」

心臓が止まりそうになった。

3.

「水野…さん…?」

男だ。わたしの名前を知っているらしい。心臓は張り裂けそうなくらいに高鳴って、体に危険を知らせていた。

この子、知ってる。隣のクラスの男の子で…。えーと確か、橋口っていったかな。

とりあえず、不審者ではなくて助かった。いや、普通に考えるとわたしが不審者なんだけど。女子中学生が朝っぱらから山の中で丸腰だ。だが、どうやら身の危険はないようでほっとした。

「ほんとにビックリした!」

わたしは動揺を悟られまいと、わざと大きな声で言いながら地上に這い上がった。タオルでかるく全身を吹き、体に巻き付ける。

「橋口郁人くんでしょ」

口が勝手に彼の名前を呼んでいた。それにしても、どうして同級生の男子がこんなとこにいるのよ。

焦りと恥ずかしさでついこんなことを言ってしまった。

「わるいけどわたしがここに来ていること、内緒にしておいてね。わたしも覗かれたことはだまっておくから」

何言っちゃってるんだろ、わたし。本当に馬鹿だ。

素早く制服を着て、呆然とする橋口に背を向けてわたしはけもの道を戻っていった。

4.

その日、濡れた髪をよく乾かしてから登校した。ギリギリになってしまったけど、一限の英語にはなんとか間に合った。

英文法の参考書を眺めながらも、ずっと頭の片隅に橋口の顔が浮かんでいた。

目立たない、大人しい男の子だ。あんな所で何をしていたんだろう。

「確か、水泳部…」

わたしはそうつぶやいて、思いつくものがあった。

もしかしたらあいつも、泳ぎを練習しに来ていたのかも。わたしがいい練習場と思うくらいだから、水泳部の橋口があの滝を知っていてもおかしくはない。

いっそのこと、あいつに背泳ぎを教えてもらうっていうのはどうだろう。

うん、いい考えな気がする。

放課後、頼んでみよう。

5.

わたしはこれでも生徒会の会長なんかをやっていて、生徒会室にわりと自由に出入りできる。

中学生の生徒会なんてあってないようなものだ。数人いる生徒会の人間は、この教室を自習室のように使っている。

橋口はまだ水泳部を引退してなかったはず。わたしは彼の部活動が終わるまで、この部屋で時間をつぶすことにした。

わたしの母親は勉強しろとうるさい。以前「勉強だけが全てじゃないよ」と反論すると「生意気なこと言うな」とひどく叱られた。

だから「勉強だけが全てじゃない」ことを証明するためにも、県でトップの高校に受かってやろうと思い、勉強を頑張っているところだ。

18時をまわって、ようやく涼しい時間になってきた。

そろそろだろうか。これで橋口を見失ったら元も子もない。わたしは勉強道具を片付けて、校門へと向かった。

門の前に立つわたしの前を、みんな訝しげな顔をして通り過ぎていく。

もしかして帰っちゃったんだろうか。

その時だった。

「あ、見つけた」

橋口が濡れたままの髪で校門から出てきた。突然声をかけられて驚いているようだった。

「そんな驚かなくてもいいでしょ。橋口くんに頼みたいことがあって」

「…いいけど、なに」

橋口は異形の生物でも見るかのようにしかめっ面でわたしの顔を覗いていた。失礼なやつだな。

いや、こっちもお願いする立場だ。低姿勢でいかないとね。

「わたしに泳ぎを教えてほしいの」

どこが低姿勢よ。これじゃ交渉というより命令だ。つくづく自分の融通の利かない性格が情けなくなった。

6.

だが、橋口は思ったより話のわかるやつだった。

水泳は得意だけど、背泳ぎだけが苦手なこと。

見栄もあるから、なんとか本番までには25メートルくらいは完泳できるくらいの力をつけたいこと。

これらを説明すると橋口は小さく「うん、わかった」と言って、例の滝壺で毎朝待ち合わせることになった。

橋口の泳ぎは美しかった。

なんというか、無駄な動きがない。軟体動物が伸びて縮むとすごい速さで進むように、最小限の波だけを立てて泳いだ。

「動かなかったら人間の体は浮かぶようにできてるから」

橋口はそう言って、私の後頭部を支えた。

動かない、なるほど。ジタバタするから沈んでしまうんだ。今は橋口が支えてくれる。わたしは思い切って力を抜いてみた。

2日ほどその練習を続けると、1人でも水に浮けるようになった。

「水野、飲み込み早いよ」

いつもの無表情で橋口が言った。

違う。橋口のコーチングが上手いんだ。

わたしは心底驚いていた。自己流でどうにもならなかったのに、こうもあっさり水面で仰向けになれるなんて。

「おれさ、速い選手じゃないけど、フォームの綺麗さだけは負けたくないんだよね」

彼がそう言った。

ああ、こいつって笑うと目じりにシワが2本できるんだな。

7.

橋口は大人しく見えて、本当はかなり熱いものを心の中に持っているんだ。それがこの1ヶ月間でわかったことだ。

「どうしてこんなことに付き合ってくれたの?」

水泳大会まで3日に迫ったある日、気になったわたしは訊いてみた。

「水野が怖かったからだよ」

間髪入れずに言われてしまった。

…わたしってそんな怖いんだ。ちょっとショックだったけど、受け入れることにした。

「今は全然怖くないけど。見栄っ張りなだけってわかったしね」

あ、また目じりのシワだ。こいつってこんなに笑うやつだったんだ。わたしは水面を見つめる橋口の顔をずっと見ていた。

背泳ぎは結局マスターできなかった。なんとか手で水を引っかくことはできるけど、まっすぐ進まないのだ。

「実際のプールにはコースロープがあるから、正反対に進まないかぎりは大丈夫」と橋口が言ってくれた。

自信なんてなかったけど、きっと大丈夫なんだ。こいつが言うんだから。

8.

水泳大会当日。全校生徒が小さなプールにすし詰めになっている。こんな思いをするのも今年で最後か、と思うとせいせいするが、ちょっと寂しい。

橋口はその組でぶっちぎりの速さだった。「速い選手じゃない」なんて言うけど、実際のところ水泳部以外の人間なんて相手にならないんだろう。

私の番も近づいてくる。

大丈夫、きっと大丈夫。自分に言い聞かせながら確実に消化されていく列を少しずつ進んだ。

ついにわたしの番がきた。

ゴールに背を向け横一列になり、ホイッスルを待つ。あの滝に比べると、人工のプールは生ぬるくてカルキ臭いな、と思った。

気の抜けるようなホイッスルが鳴り、一斉にスタートした。

蛇行する。やばい、進まない。力が入りすぎているのかも。大丈夫、人は浮かぶ。橋口に言われたことを再確認する。

4回ほどコースロープにぶつかった。痛いけど、そのたびに軌道を修正できるのはありがたかった。

鼻に水が入りツンとした。苦しい。今自分はどれくらい泳いだんだろう。25メートルが永遠に感じる。

足をつくのはルール違反ではない。泳ぎが苦手な子もいるから、当然だ。でも、どうしても泳ぎ切りたかった。今日だけは絶対に。

それにしても、つくづく背泳ぎとは変わった泳法だ。4泳法の中で唯一、空を見ながら泳ぐことができる。これまでは上を見る余裕なんてなかったけど、今ならわかる。背泳ぎは特別だ。

ちぎれた雲が空に浮かんでいた。まるで空を泳いでるみたいだ。

「水野ッ」

ふと声が聞こえた気がした。橋口だ。笑っちゃう。あいつこんな大きい声出せたんだ。

その時、ごん、と壁に頭をぶつけた。痛い。

壁…?

わたしは25メートルを泳ぎきったのだ。

プールサイドに橋口の姿があった。真剣な顔でこっちを見ている。ちょっと怒ってるように見えるのは気のせいだろうか。

わたしは笑顔で彼に手を振った。

9.

その日、帰り道でたなちゃんに思いっきり冷やさかれた。

「なんかさ、あかりのことを馬鹿にしたやつがいてさ。その時橋口が叫んだんだよ。あんた達ウワサになってるよ」

耳が赤くなるのを感じた。あの時名前を呼ばれたのは幻聴じゃなかったんだ。

「こそこそなんかやってるのは知ってたけど、あの水泳部の子かあ、意外だな」

たなちゃんは完全にゴシップ好きのおばさんになっていた。本当に勘弁してほしい。

「泳ぎ方を習ってただけだよ」

弁明したけど、ニヤニヤしたまま流されてしまった。

たなちゃんと別れて、わたしは1人で歩きはじめた。明日の終業式を迎えたらやっと夏休みだ。

1ヶ月続いた朝練は終わり。もう滝で泳ぐ理由はなくなってしまった。

でも次の日の朝も、わたしはあの滝に行ってみることにした。

10.

次の日、橋口は一足先に滝で泳いでいた。もう夏休みだというのに、ほんとに水泳バカだなと思う。

わたしの姿を確認すると「おはよ」と短く言った。

「引退試合があるんでしょ。応援に行きたい」

わたしがそう言うと、橋口は微妙な表情を浮かべていた。なに、迷惑って言いたいの?

その返答はもらえないまま、なんとなく気まずい沈黙が流れた。

「おれも谷高目指そうと思う」

「えっ」

橋口が予想外のことを言った。谷高、というのは私が目指している学校だ。こう言っちゃ失礼だけど、橋口の学力的にはかなり厳しいんじゃないか。

そうか…。よし、なら今度はわたしが勉強を教えてあげようかな。

「こんどはバタフライを教えてよ」

来年の夏は。そう心の中で付け足した。

だから絶対、同じ高校に行こうね。

今年の夏はなにかが違う。予感は確信へと変わっていた。

(おわり)

スキしていただけるだけで嬉しいです。