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30年日本史00854【建武期】豊島河原合戦

 尊氏軍が湊川に到着したのは、建武3(1336)年2月3日のことでした。
 ここは赤松円心の地元・佐用庄に程近いところです。円心は尊氏に
「ここは要害の地ではなく、守りにくいところです。大将お二人(尊氏と直義のこと)は摩耶山城(兵庫県神戸市)にお移りになってはいかがでしょうか。よろしければ私がご案内いたします」
と述べますが、他の武士が
「なるほど円心の意見はもっともですが、もし両大将が城に籠もったという話が伝われば、我々が不利な状況に陥っているとみなされ、諸国にいる味方が敵方に寝返ってしまうかもしれません」
と進言します。これを聞いた円心は納得し、自らの進言を撤回しました。
 そうしている間にも、湊川まで行きつけなかった足利方の兵は次々と新田勢に降伏し、新田勢の人数は膨れ上がっていきます。
 建武3(1336)年2月5日。新田義貞と北畠顕家は足利軍を追撃しようと10万騎で京を出発し、摂津国芥川(大阪府高槻市)に到着しました。これを聞いた尊氏は、
「攻め向かって合戦せよ」
と弟・直義に16万騎を与えて湊川から出陣させました。例によって太平記の数字は信用できませんが、敗走中の足利軍が新田軍と十分渡り合えるだけの兵力を保っていたのは事実のようです。
 2月6日朝。足利軍と新田・北畠軍とは豊島河原(てしまがわら:大阪府箕面市)で遭遇しました。布陣する暇もない遭遇戦となり、両者とも激しく戦いますがなかなか決着がつかないまま夜になりました。
 ここに遅れて参戦したのが楠木正成です。楠木軍は迂回して直義の軍勢に後方から押し寄せました。直義らは一日中戦い続けて疲れ果て、とても楠木軍と戦える状況ではありません。やむなく西宮(兵庫県西宮市)へと撤退し、さらには湊川(兵庫県神戸市)まで退きました。豊島河原合戦は足利方の敗北に終わったのです。何度も言うように、直義は尊氏抜きでは勝てません。
 2月7日の朝となりました。打出浜(兵庫県芦屋市)の沖合には大量の船が停泊していました。皆は「どちらの軍勢だろう」と不思議がって見ていましたが、これは足利軍の味方をしようと集まった九州の水軍と、後醍醐天皇方の味方をしようと集まった四国の水軍とが入り混じったものでした。
 戦いは当初は互角でしたが、足利方は徐々に押され始め、尊氏はやむなく退却を命じました。この打出浜での戦いについては特段の名称がありません。単に「打出浜の戦い」というと、この15年後に起こる別の戦いを指すので注意が必要です。

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