じゃむむ

ただの歴史好き。完結できるかどうか分からない連載を書き続けてる人。まだ14世紀を書いて…

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ただの歴史好き。完結できるかどうか分からない連載を書き続けてる人。まだ14世紀を書いているところで、先は長いですが優しく見守ってください。 これから歴史を動かすような大仕事をして、この連載の令和時代の記述にさりげなく自分を実名で登場させるという夢を持っています。

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  • 30年かけて語る日本史(毎日投稿)

    2022年元日から始めた連載。「人間って面白いな」と思えるような、登場人物の個性に着目した日本史講座を目指しています。受験対策になるかどうかは微妙ですが、旅行がより楽しくなるはずです。 1日にWord1ページずつ書いていき、全1万ページで日本史を最初から現代まで全て書き切るという計画です。30年弱かかりますが、気長にお付き合いいただければ幸いです。

  • 「どうする家康」解説・感想

    大河ドラマ「どうする家康」の回ごとの解説と感想を書いていきます。

  • お悩み相談に歴史をヒントにお答えする

    お悩み相談に対して、歴史上のエピソードを取り上げながらお答えするものです

  • 激論昭和史

    大学生4人が昭和史について激論を繰り広げます。 いろんな立場の意見を聞きながら昭和史を学べます。

  • 母のいろは歌(ホラー注意!)

    母のいろは歌がおかしい・・・ということに端を発する奇妙な経験について書いてみました。

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30年かけて語る日本史 目次(まずはここからご覧ください)

2022年元日から始めた連載。「人間って面白いな」と思えるような、登場人物の個性に着目した日本史講座を目指しています。受験対策になるかどうかは微妙ですが、旅行がより楽しくなるはずです。 1日にWord1ページずつ書いていき、全1万ページで日本史を最初から現代まで全て書き切るという計画です。毎日のタスクを軽めに設定するため、画像や太字強調など読みやすくするための工夫をほとんど施していません。将来的に書籍化する機会があったら、もっと読みやすくしたいと思います。 30年弱かかりま

    • 30年日本史00848【建武期】北畠顕家の快進撃

       鎌倉を出発した顕家の進軍の早さはすさまじいものでした。鎌倉以西には敵がいなかったとはいえ、建武3(1336)年1月6日には遠江に到着し、12日には近江国愛知川(えちがわ:滋賀県愛荘町)に到着したといいます。  多賀城を出発したのは前年12月22日のことですから、僅か22日で800kmを踏破したこととなります。あの羽柴秀吉の中国大返しが10日で230kmですから、その1.5倍のスピードで、かつ途中で何度か戦闘を経ているというわけです。  この進軍について、太平記には衝撃の記述

      • 30年日本史00847【建武期】甕の原の戦いと鎌倉占領

         新田軍が足利軍に敗れ、建武2(1335)年12月8日に足利軍が鎌倉を出発して京へ進撃したとの知らせが入ったため、顕家は尊氏を追いかけようと、12月22日、義良親王とともに多賀国府を出発しました。  一方、顕家と同じく奥州にいた斯波家長は、尊氏を助けるべく顕家を追って斯波館を出て南下します。顕家は前方にいる敵だけでなく、後方から追跡してくる敵をも意識しなければならなくなりました。  顕家はまだ奥州をすっかり統一できたわけではなく、周囲は敵ばかりです。最初に立ちはだかった敵が、

        • 30年日本史00846【建武期】北畠顕家出陣

           建武3(1336)年1月12日。比叡山延暦寺に逃れた後醍醐天皇の元に、嬉しい情報が入りました。2年前に奥州に送り込んだ忠臣・北畠顕家が尊氏を討つべく戻ってきてくれたというのです。  ここで、北畠顕家のこれまでの動きを見てみましょう。  北畠顕家は、元弘3(1333)年10月20日に京を出発し、父・親房とともに義良親王(後醍醐天皇の七男)を奉じて奥州へと向かいました。11月には陸奥国の多賀城(宮城県多賀城市)に入り、鎌倉から流れて来た北条氏の残党を次々と捕縛しました。  この

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        • 30年かけて語る日本史(毎日投稿)
          850本
        • 「どうする家康」解説・感想
          42本
        • お悩み相談に歴史をヒントにお答えする
          7本
        • 激論昭和史
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          30年日本史00845【建武期】結城親光戦死

           大渡と山崎で新田軍が敗れたと聞き、朝廷は慌てふためきます。  建武3(1336)年1月10日、朝廷の面々は京を明け渡して近江に逃げることとなり、後醍醐天皇も急いで比叡山に避難することとなりました。しかし天皇の護衛に割ける人員がおらず、天皇はなんと徒歩で比叡山に登ることになりました。後伏見法皇、花園法皇、光厳上皇といった持明院統の面々も比叡山に連れて行かれてしまいました。  その日の夜、足利軍が都になだれ込んで来ました。一旦は坂本(滋賀県大津市)まで逃れていた名和長年は、 「

          30年日本史00845【建武期】結城親光戦死

          30年日本史00844【建武期】山崎の戦い

           さらに新田軍は挑発を続けます。  大渡には橋がかかっていたのですが、新田軍は足利軍の攻撃を防ぐため、あらかじめ橋板を全て外していました。新田軍は、その骨組みだけの橋を 「十分渡れるだろう。渡って来い」 と言って挑発したのです。  これを聞いた足利軍の野木頼玄(のぎらいげん)という武士が、幅の狭い橋に足をかけて渡り始めました。新田軍が次々と矢を射かけますが、頼玄は足場の狭い橋の上で飛び跳ねて矢をよけたり、刀で矢を落としたりして見事に橋を渡り切りました。  橋の向こうには新田軍

          30年日本史00844【建武期】山崎の戦い

          30年日本史00843【建武期】大渡の戦い

           建武3(1336)年になりましたが、反乱軍がいつ攻め込んでくるか分からないという緊急事態だったため、宮中では例年元日に行われるはずの儀式も行われませんでした。  1月7日。近江国に入った尊氏軍は、印岐志呂神社(いきしろじんじゃ:滋賀県草津市)に立て籠もる僧兵・成願坊(じょうがんぼう)の軍を攻め落としました。  1月8日には尊氏が石清水(京都府八幡市)に、細川定禅が芥川(大阪府高槻市)に、久下時重が大江山(京都府福知山市)に、それぞれ陣を布いて京へ攻め上る準備を整えました。

          30年日本史00843【建武期】大渡の戦い

          30年日本史00842【建武期】建武の乱、全国に広がる

           新田義貞が足利軍に敗れたことと前後して、全国あちこちで後醍醐政権への反乱が発生していました。  まず建武2(1335)年11月26日に、足利家の一族である細川定禅(ほそかわじょうぜん)が讃岐国で挙兵しました。これを鎮圧しようと兵を集めた後醍醐方の高松頼重(たかまつよりしげ)は、屋島で細川軍と合戦しますが敗北しました。  同じ日、細川定禅と示し合わせた足利方の飽浦信胤(あくらのぶたね)が備中国福山城(岡山県総社市)で挙兵しました。後醍醐方の児島高徳らはこれを鎮圧しようと三度に

          30年日本史00842【建武期】建武の乱、全国に広がる

          30年日本史00841【建武期】箱根・竹ノ下の戦い 義貞敗走

           新田義貞は僅か500騎で東海道を西へ西へと逃げていきます。その最中、伊豆国府(静岡県三島市)のあたりで通りすがりの僧から 「ここから先は足利勢80万騎が道に溢れ返っていて、とても通れますまい」 と言われてしまいます。  ところが、義貞の側近・栗生顕友(くりゅうあきとも)と篠塚重広(しのづかしげひろ:1309~1342)は、 「味方500騎に敵80万騎とはちょうどよい」 などと無茶苦茶なことを言って、そのまま敵中を全速力で通り抜けようとしました。無茶な人たちです。  足利勢の

          30年日本史00841【建武期】箱根・竹ノ下の戦い 義貞敗走

          30年日本史00840【建武期】箱根・竹ノ下の戦い 菊池千本槍

           竹ノ下の戦いは新田軍が一時的に優勢に見えましたが、後半になると足利軍が盛り返して来ました。その原因の一つには、佐々木道誉の裏切りがありました。  佐々木道誉は手越河原の戦いに敗北し、新田軍に帰順したはずです。ところが記録によると、竹ノ下の戦いの記録ではなぜか足利軍の方に名前が載っているのです。これは、一旦新田方に寝返った道誉が、今度は足利方に寝返ったということでしょう。  佐々木道誉がどのような思いで二度の裏切りをしたのか分かりませんが、大河ドラマ「太平記」では、陣内孝則演

          30年日本史00840【建武期】箱根・竹ノ下の戦い 菊池千本槍

          30年日本史00839【建武期】箱根・竹ノ下の戦い 義治の豪胆

           足利尊氏・直義兄弟が鎌倉を出陣したのは、建武2(1335)年12月8日のことです。  西から鎌倉へ入る主要な街道が2ヶ所あるため、足利軍は二手に分かれ、兄・尊氏は竹ノ下(静岡県小山町)で、弟・直義は箱根(神奈川県箱根町)で、それぞれ敵を迎え討つことに決めました。  一方、新田軍もまた二手に分かれます。尊良親王と脇屋義助は竹ノ下へ、義貞は箱根へ、それぞれ進軍しました。  12月11日。まず竹ノ下で足利尊氏軍と尊良親王・脇屋義助軍が激突しました。これまでの連戦連勝で、新田軍はす

          30年日本史00839【建武期】箱根・竹ノ下の戦い 義治の豪胆

          30年日本史00838【建武期】偽綸旨の効用

           手越河原での敗戦を聞いた鎌倉の足利勢は驚き、棟梁たる尊氏に出馬するよう説得を重ねました。  このとき、尊氏がいかにして出陣を決意したのか、「梅松論」と「太平記」ではだいぶストーリーが異なっています。  まず「梅松論」によると、尊氏は 「帰洛せよとの帝のご命令には従いたかったが、鎌倉を離れるわけにいかず、心ならずも帝に背いてしまった。帝への恐懼の思いから政務を直義に任せて出家しようと思っていたが、直義が苦戦していると聞いた。もし直義が戦で落命するようなことがあれば、私自身生き

          30年日本史00838【建武期】偽綸旨の効用

          30年日本史00837【建武期】手越河原の戦いと佐々木道誉投降

           建武2(1335)年12月5日。新田義貞が手越河原に陣を張る敵軍を見渡すと、予想以上の大軍でした。しかし義貞は配下の兵たちに 「敵の多くは戦意を喪失した者どもだ。ひるむことはないぞ」 と呼びかけ、突撃させました。  なかなか決着がつかないまま7時間が経過しました。既に17回もの激闘が行われ、両軍とも大きな被害が出ています。  日が暮れた後、義貞は弓の名手たちを集めて藪の中からこっそり敵陣に近づかせ、矢を浴びせました。足利軍はこの奇襲を予期していなかったらしく、甚大な被害が出

          30年日本史00837【建武期】手越河原の戦いと佐々木道誉投降

          30年日本史00836【建武期】矢作川の戦いと鷺坂の戦い

           尊氏は自ら謹慎すると言い出し、髻(もとどり)を切って寺に籠もってしまいます。  当時、髻を切るというのは武士を辞めることに他なりません。一同は衝撃を受け、もはや足利家も終わりかと噂し合いました。ちなみに尊氏が籠もった寺は、「梅松論」では浄光明寺、「太平記」では建長寺(いずれも鎌倉市内)となっており、ずれがあります。  直義はやむなく尊氏抜きで出陣することとしました。今後の展開はもうお分かりでしょう。直義は尊氏抜きでは絶対に戦に勝てません。  建武2(1335)年11月20日

          30年日本史00836【建武期】矢作川の戦いと鷺坂の戦い

          30年日本史00835【建武期】尊氏の戦意喪失

           そもそも鎌倉を新田義貞と足利千寿王が占領していた頃から、足利・新田間の対立の火種はくすぶっていました。鎌倉に集う武士たちの人事権や荘園の領有権をめぐる対立があったのです。  こうした組織間の対立は、トップ同士が対立しているというよりも家臣同士が感情的になっているケースが多いように思われます。幕府滅亡直後、足利千寿王を推戴して足利家を支えていたのは家臣の細川和氏でしたが、この細川和氏やその配下の兵たちが新田を敵視したのでしょう。  その後、直義が鎌倉に派遣されたことで、この対

          30年日本史00835【建武期】尊氏の戦意喪失

          30年日本史00834【建武期】尊氏朝敵となる

           足利家から「追討すべし」と言われてしまった新田義貞は、逆に天皇に対し尊氏追討を申請します。その申請の趣旨は次のとおりです。 ・尊氏は名越高家の討死(00783回参照)を契機として天皇方に寝返ったに過ぎない。 ・千寿王は当時3歳の幼児に過ぎず、その参陣は取るに足らない。 ・直義は鎌倉に幽閉していた護良親王を殺害した。  以上のことから 「尊氏・直義は逆賊として誅伐すべきである」 と義貞は主張しました。  護良親王が殺害されたことを公卿たちはここで初めて知ることとなりました。こ

          30年日本史00834【建武期】尊氏朝敵となる