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30年日本史00839【建武期】箱根・竹ノ下の戦い 義治の豪胆

 足利尊氏・直義兄弟が鎌倉を出陣したのは、建武2(1335)年12月8日のことです。
 西から鎌倉へ入る主要な街道が2ヶ所あるため、足利軍は二手に分かれ、兄・尊氏は竹ノ下(静岡県小山町)で、弟・直義は箱根(神奈川県箱根町)で、それぞれ敵を迎え討つことに決めました。
 一方、新田軍もまた二手に分かれます。尊良親王と脇屋義助は竹ノ下へ、義貞は箱根へ、それぞれ進軍しました。
 12月11日。まず竹ノ下で足利尊氏軍と尊良親王・脇屋義助軍が激突しました。これまでの連戦連勝で、新田軍はすっかり敵をみくびっていたのでしょう。尊良親王の周囲の公家たちは武士に比べ戦闘力が低いのに、錦の御旗を出して敵の前に躍り出て
「一天の君に矢を放つ者には天罰が下るぞ。おとなしく降参せよ」
と叫びました。しかし尊氏軍の兵たちは怯むことなく、
「公家の集団だ。矢がもったいないから刀で倒せ」
と叫び、攻めかかります。公家たちは恐れおののき、一戦も交えず逃げ出しました。
 これに勢いを得て足利軍が優勢に戦いを進めることとなりましたが、途中から後ろに控えていた脇屋義助が現れます。義助は
「つまらぬ者どもが先陣に進み出たせいで、味方の戦力を失ってしまった。かくなる上は私が敵を追い散らしてみせよう」
と述べ、激闘が始まりました。
 激闘のさなか、義助の子で当時12歳の脇屋義治(わきやよしはる:1323~?)が家来3騎とともに敵陣に取り残されてしまいました。義助は子の姿が見えないと分かると半狂乱になり、敵陣に突撃を繰り返しながら子を探しました。
 しかし当の義治は落ち着いたもので、敵陣の中にぽつんと取り残されたことを悟ると、笠印を引きちぎって投げ捨て、足利軍の一員であるかのように振る舞い、こっそり父に近づいたところで突然馬を加速させ、新田軍に戻っていきました。
 これを見た足利軍の武士は、
「こんな若者が命を投げうって新田軍に突撃しようとしている」
と勘違いして、これを補佐しようと一緒になって新田軍に突撃していきました。しかし新田軍の陣に駆け入った義治はすぐに保護され、ついて来た2人の武士は簡単に討たれてしまいました。
 義助は子の無事を喜び、
「しばらく人馬を休ませよ」
と指示して休憩に入りました。

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