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30年日本史00006【旧石器】明石原人の夢*

 直良信夫にとって最も思い入れのあった明石人骨が失われたことは大きなショックでした。信夫にとっては、あの人骨が旧石器時代のものであることを証明することが自らの研究人生の目標だったのです。目標を失い呆然とした信夫でしたが、戦争が終わるとまもなく論文執筆に取りかかり、考古学研究を再スタートさせます。
 昭和23(1948)年になって、信夫が再び世間の注目を浴びる出来事がありました。東京大学人類学教室の長谷部言人(はせべことんど:1882~1969)教授が、信夫のもとに使いを出してきたのです。
「あの腰骨をもう一度研究したいから、石膏の型が残っていれば貸してほしい」
とのことでした。信夫が骨の模型を貸し出すと、長谷部はそれを鑑定し、
「原人の骨と考えられる」
と発表し、学名を「ニポナントロプス・アカシエンシス」と命名しました。原人だとすれば1万年よりはるかに以前のものということになります。
 しかし、長谷部は信夫に一切事前に通知することなくこの論文を発表した上、西八木海岸を再調査するに当たって、信夫に
「オブザーバーならば参加しても良い」
などと放言し、信夫を完全に怒らせてしまいました。長谷部はアマチュア出身である信夫を見下していたのでしょう。長谷部は信夫のいない中で西八木海岸を調査し、別の箇所を捜索してしまったため、遺跡を掘り出すことはできませんでした。
 さて、昭和57(1982)年になって、コンピューター解析により、明石人骨は原人ではなく新人だったと結論付けられました。信夫の発見は誤りだったというのです。そもそも、日本の土壌は酸性であるため、1万年以上前の人骨は出土しないと言われています。明石から原人の人骨が出てくる可能性は低いのです。ただ唯一の例外は、石灰の多い沖縄の土壌です。昭和42(1967)年に港川(沖縄県八重瀬町)で出土した人骨は、約18000年前のものとされており、現時点で日本最古のものです。
 信夫は晩年になってからその業績を否定されてしまったわけです。そして昭和60(1985)年、失意のうちに世を去りました。享年83歳。
 直良信夫の業績は否定されてしまったものの、
「1万年以上前の日本に人が住んでいたかもしれない」
という問題提起は、考古学者たちを大いに発奮させたに違いありません。それが、昭和24(1949)年の岩宿遺跡の発見につながっていくのです。
 これで直良信夫の物語は終わりです。余談ですが、大月書店刊のまんが日本の歴史第1巻では、なぜかこの直良信夫の生涯が大々的に取り上げられており、信夫の自宅が空襲で炎上する場面などが重要エピソードとして描かれています。私は小学生時代に読みましたが、変なところにスポットを当てる漫画だなあと不思議に思ったのを覚えています。

私が子供の頃読んだ大月書店刊「まんが日本の歴史」第1巻。卑弥呼の右隣に座っているのが直良信夫。ほとんど直良さんメインのチャプターがある。

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