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30年日本史00851【建武期】三井寺の戦い 三井寺炎上

 三井寺の門前にまで新田軍が迫ってきました。
 三井寺を守る細川軍は、板の隙間から槍や長刀で攻撃しましたが、新田軍の渡里忠景はこれを16本も奪い取って捨てました。
 さらに畑時能が
「渡里殿、どいてくれ。扉を引き破ってから合戦しよう」
と言って門扉を蹴りつけました。すると扉に渡してあった木が折れ、門扉は支柱ごと内側に倒れていきました。すごい力です。扉を守っていた細川勢の兵たちは次々と逃げていきました。
 新田軍は次々と境内に入っていき、寺院に火をかけていきます。ここまで来るともはや勝負になりません。細川軍に味方していた三井寺の僧兵たちは覚悟を決め、猛火の中で次々と切腹していきました。
 三井寺の本堂の本尊は弥勒菩薩像でした。僧兵らは
「このまま焼け落ちるのは恐れ多い」
と言って、首だけを持ち出して藪の中に隠したといいます。
 後日、藪の中でこの首を見つけた比叡山延暦寺の僧が、こんな歌を書きつけました。
「山をわれ 敵とはいかで 思ひけん 寺法師にぞ 首を切らるる」
 この歌は三井寺へのひどい敵意を含んだものなのですが、その意味を理解するには少々解説が必要でしょう。
 当時、比叡山の上にあった延暦寺を「山門派」と呼び、比叡山の下にあった三井寺を「寺門派」と呼んでいました。両寺の僧兵らは平安時代以来何度も武力衝突を繰り返していました。そもそも延暦寺の僧の一部が分派して作った寺が三井寺なので、対立するのは当然でしょう。
 この「山門派」「寺門派」を略して、延暦寺を「山」、三井寺を「寺」と呼ぶならわしがありました。
 つまりこの歌は、弥勒菩薩像の立場に立って歌われたもので、
「なぜ私が延暦寺(山)を敵と思うであろうか。三井寺(寺)の僧に首を斬られたのだから(つまり三井寺の方が憎い)」
という程度の意味でしょう。三井寺の本尊の首がほかならぬ三井寺の僧によって斬られたことを揶揄しているのです。

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