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30年日本史00848【建武期】北畠顕家の快進撃

 鎌倉を出発した顕家の進軍の早さはすさまじいものでした。鎌倉以西には敵がいなかったとはいえ、建武3(1336)年1月6日には遠江に到着し、12日には近江国愛知川(えちがわ:滋賀県愛荘町)に到着したといいます。
 多賀城を出発したのは前年12月22日のことですから、僅か22日で800kmを踏破したこととなります。あの羽柴秀吉の中国大返しが10日で230kmですから、その1.5倍のスピードで、かつ途中で何度か戦闘を経ているというわけです。
 この進軍について、太平記には衝撃の記述があります。
「元々顕家軍は恥知らずの野蛮人どもなので、沿道の民家から略奪し、神社仏閣を焼き払う。顕家軍が通り過ぎた後は、民家が一軒も残っておらず、草木の一本も生えていない」
 何ということでしょう。公家のプリンスであるはずの北畠顕家が、なんと兵たちに略奪を許していたというのです。確かに乱世において行儀やマナーを気にしていては勝てないのでしょうが、それにしてもショッキングな内容です。まあ、この記述には東北人に対する蔑視が含まれていると思われるので、割り引いて捉える必要はありますが。
 ちなみに中世史学者の呉座勇一氏は、進軍のスピードが早いのは略奪でしか食糧を得られないためであろうと主張しています。
「昔から歴史家は、顕家軍の快進撃を見て『大軍なのに驚異的スピード!』と驚いてきたが、発想が逆である。大軍が食っていくには移動し続けるしかないのである」(「戦争の日本中世史」より)
 さて、顕家軍は東国を去ったわけですが、彼がいなくなった後の常陸国ではまだ戦いが続いていました。
 建武3(1336)年1月には後醍醐天皇方の楠木正家(くすのきまさいえ)が瓜連城(うりづらじょう:茨城県那珂市)に入城しました。
「楠木正家は楠木正成の代官として派遣された」
との記録があり、どうやら正成が常陸国内に所領を与えられたことが分かりますが、時期を考えると、北畠顕家が東北を留守にすることで生まれた間隙を埋めるために派遣されたのでしょう。この正家が正成とどういう関係なのか不明ですが、従兄弟とする説が有力視されています。
 2月6日には佐竹貞義が楠木正家の守る瓜連城を攻撃しますが攻略できず、子の佐竹義冬(さたけよしふゆ:?~1336)が戦死するほどの大損害を受け、再び金砂城に撤退することとなりました。その後は、逆に楠木正家や那珂通辰らが佐竹氏の金砂城を攻撃しますが、なかなか決着がつきません。
 この金砂城と瓜連城の戦いの続きは後で触れることにして、とりあえずは上洛した北畠顕家の周辺を見ていくことにしましょう。

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