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30年日本史00842【建武期】建武の乱、全国に広がる

 新田義貞が足利軍に敗れたことと前後して、全国あちこちで後醍醐政権への反乱が発生していました。
 まず建武2(1335)年11月26日に、足利家の一族である細川定禅(ほそかわじょうぜん)が讃岐国で挙兵しました。これを鎮圧しようと兵を集めた後醍醐方の高松頼重(たかまつよりしげ)は、屋島で細川軍と合戦しますが敗北しました。
 同じ日、細川定禅と示し合わせた足利方の飽浦信胤(あくらのぶたね)が備中国福山城(岡山県総社市)で挙兵しました。後醍醐方の児島高徳らはこれを鎮圧しようと三度に渡って攻撃を仕掛けましたが、敗れました。
 11月27日には足利方の井上俊清(いのうえとしきよ)が能登国で挙兵し、石動山(いしるぎやま:石川県中能登町)に立て籠もりました。12月12日に後醍醐方の中院定清(なかのいんさだきよ:?~1335)が鎮圧しようと攻め込みましたが、敗死しました。
 さらに12月19日には、足利方の久下時重(くげときしげ:1297〜1354)が丹波国で挙兵しました。後醍醐方の碓井盛景(うすいもりかげ)が鎮圧に当たりますが敗北し、さらに播磨国の赤松円心も後醍醐政権に謀反を起こしそうな気配を示しています。
 全国からの敗報を受けて、後醍醐政権は大混乱に陥りました。内裏の陽明門の扉には
「賢王の 横言になる 世の中は うへをしたへを 帰したりける」
との狂歌が書かれました。「横言」とは「横暴な命令」という意味で、横言のせいで上を下への大騒ぎだと揶揄しているのです。
 天皇は急ぎ新田義貞を呼び戻すこととしました。義貞は尾張国から京へ取って返しますが、途中で馬が死んでしまうなど不吉な予感を感じさせる旅となりました。
 さて、一方の尊氏はゆっくりと兵力を増やしながら京へ近づいていました。その数80万騎といわれていますが、誇張でしょう。
 あちこちで反乱が起き、追い詰められた後醍醐天皇は味方を増やすべく、
「来たる合戦で功績を挙げた者には恩賞を与える」
と発表し、それを雑訴決断所の壁に掲げました。
 ところが、その貼り紙に落書きを付け加えた者がいました。
「かくばかり たらさせ給ふ 綸言の 汗のごとくに などなかるらん」
 「綸言(りんげん)汗のごとし」という諺は、天皇の命令は汗のように一度発せられると元に戻せないという意味です。この狂歌は、綸言は汗が垂れるようになるべきところ、人を垂らす(騙す)ようになったのはなぜか、と揶揄しているのです。
 今や後醍醐天皇に従う勢力と、打倒しようとする勢力とが拮抗する状況になっているようです。

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