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30年日本史00860【建武期】有智山城の戦い

 菊池城を失った菊池武敏は、ここから再び勢力を蓄えていきます。
 建武3(1336)年2月27日、阿蘇惟直の助力を得た菊池武敏は、大宰府の少弍軍のもとに攻め寄せました。当時、少弍家の当主・頼尚は尊氏とともに赤間(山口県下関市)に滞在していたため、大宰府を守っていたのは頼尚の父の少弍貞経でした。菊池武敏にとっては父の仇でもあります。
 この戦いは菊池軍の勝利に終わり、大宰府は炎上しました。
 居館を焼き払われた少弍貞経は、有智山城(うちやまじょう:福岡県太宰府市)に逃れました。有智山城は四方が崖となっているテーブル状の城で天然の要害であり、さすがの菊池軍も攻めあぐねる城でした。
 ところが、有智山城の戦いは呆気なく決着がつきました。城内から裏切りが出たため、短期間で陥落してしまったのです。
 2月29日、少弍貞経は尊氏のために用意していた武具が焼失したことを恥じ、自害しました。こうして菊池武敏は大敗北から僅か3ヶ月後、因縁の宿敵・少弍家に対して大逆転を期したのでした。ただ、菊池武敏は父の仇を討ったわけですが、今度は武敏自身が少弍頼尚から見て父の仇となったわけで、両家の争いはまだまだ続きます。
 さて、その頃尊氏・直義は少弍家を救うべく準備しており、同日に芦屋浦(福岡県芦屋町)に上陸していました。その上陸直後に有智山城陥落の知らせが届いたのです。「もう少し早く到着していれば助けられただろうに」と尊氏はひどく嘆いたといいます。
 士気が落ちるのを防ごうと、尊氏の陣中にいた少弍頼尚はこの知らせを虚報だと言ってごまかそうとしますが、陥落が事実であることはすぐに露見してしまいます。さらに
「菊池勢が間もなく攻め込んでくる」
との噂も流れ始め、尊氏・直義は士気を失った兵たちとともに強敵・菊池勢と戦うことになるのです。
 3月2日。勢い立った菊池勢は4、5万騎もの大軍になって、足利軍のいる多々良浜(福岡市東区)へと攻め寄せます。対する足利軍は僅か500騎です。太平記は戦力差を誇張しており、実際は足利方2千騎VS菊池方数万騎の戦いだったと考えられていますが、それでも尊氏にとっては相当に不利な戦いです。
 例によって弱気な尊氏は
「まるで蟻が大木に立ち向かうようなものではないか。名もなき者に討たれるよりは、むしろ潔く腹を切ろう」
と自害を覚悟していましたが、尊氏の神がかった伝説的なエピソード「多々良浜の戦い」はこの圧倒的に不利な状況から始まるのです。

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