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30年日本史00850【建武期】三井寺の戦い 攻撃開始

 建武3(1336)年1月14日。夜明けとともに後醍醐天皇方が三井寺に攻撃を仕掛けます。
 一番手の千葉新介(ちばしんすけ:?~1336)が城門を破って寺内に攻め寄せますが、細川定禅は千葉軍の横っ面を狙って攻撃し、千葉新介を討ち取りました。人数で劣る細川軍ですが、なかなか善戦しています。
 二番手に北畠顕家軍が、三番手に結城宗広(ゆうきむねひろ:1266~1339)軍が、寺に討ち入りましたが、細川定禅軍の奮戦によって退けられ、三井寺はなかなか落ちません。ちなみに結城宗広とは、既に登場した結城親朝・親光兄弟の父に当たります。4日前に壮絶な戦死を遂げた次男・親光の弔い合戦という気持ちもあったかもしれません。
 北畠軍・結城軍を退けた細川定禅は三井寺から討って出て、後醍醐天皇方を追撃して来ました。ここに立ちはだかったのが大将・新田義貞の軍勢でした。新田の大軍勢から射かけられた矢に圧倒されて、細川勢はさすがに敵わず三井寺へ引き返しました。
 新田軍は追跡しますが、細川勢は三井寺の門の木戸を下ろし、堀の橋を取り除いてしまいました。新田軍は堀の前で立ち尽くします。
 新田軍の脇屋義助は、
「なんと不甲斐ない。木戸を閉められただけで、この程度の寺を攻め落とせないとは。栗生・篠塚はいないか。あの木戸を引き破れ」
と命じました。栗生顕友と篠塚重広が馬から降り、木戸の前に駆け寄ってみると、堀にかかった橋は外されてしまって木戸に近づく方法がありません。どうにかして渡れないものかと近くを見渡してみると、大きな卒塔婆が2本ありました。二人は
「これはおあつらえむきの橋板だ」
と言って卒塔婆を引き抜きました。罰当たりな人たちです。
 卒塔婆が橋となり、畑時能(はたときよし:1299~1341)と渡里忠景(わたりただかげ)が門の前まで進んで行きました。
 ちなみに、新田家家臣の中で特に活躍の著しい
・栗生顕友
・篠塚重広
・畑時能
・由良具滋(00803回参照)
の4名を「新田四天王」と呼びます。この後も何度か登場しますので、記憶にとどめていただければと思います。
 さらに新田義貞の弟・脇屋義助や、義助の子・脇屋義治もなかなかの強者ですから、新田軍には良質な人材が揃っていたといえます。

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