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30年日本史00856【建武期】新田義貞と勾当内侍

 足利軍の多くは船に乗せてもらえず、打出浜に取り残されてしまいましたが、新田軍はこうした兵たちを味方として取り込むこととなりました。足利軍から新田軍へと乗り換えることとなった兵たちは、急いで旗を作り替えなければなりません。
 足利家と新田家の家紋はひどく似ています。足利家は丸に黒い線が二本入った「二つ引き」と呼ばれるもので、新田家は丸に黒い線が一本入った「一つ引き」と呼ばれるものです。投降兵たちは二つ引きを一つ引きに作り替えるために、二本の黒線の間の白地を黒く塗りつぶすことで一本の黒線に作り替え、急ごしらえの新田家の旗を作りました。
 これを見た京の人々は、
「二筋の 中の白みを 塗り隠し 似た似たしげな 笠印かな」
と詠みました。「似た似たしげ」というのを「新田新田しげ」と掛けているわけですね。
 足利軍が九州に逃げたのを新田義貞は追跡することなく、一旦京に戻りました。このとき追撃していれば足利軍は敗北していた可能性が高く、歴史は大きく変わったかもしれないのですが、義貞はなぜ京に戻ってしまったのでしょうか。
 この理由について、「太平記」にひどくスキャンダラスな記述があります。義貞は勾当内侍(こうとうのないし)という女官と恋に落ち、彼女との別離に耐えられなかったため京に戻ったというのです。事実だとしたら武家の棟梁失格ですね。
 新田義貞と勾当内侍との出会いについては、こんなエピソードがあります。
 義貞は、後醍醐天皇に仕える女官・勾当内侍に一目惚れしてしまい、
「我が袖の 泪に宿る 影とだに しらで雲井の 月やすむらむ」
(あなたを思って涙にぬれる袖に月の光が照っている。私の思いを月は知りもしないでしょう)
という恋歌を書き送りました。
 しかし勾当内侍は本来天皇の側室となることが期待されて宮中に仕える立場ですから、義貞のこの行為は言わば横恋慕です。義貞はこの恋を後醍醐天皇に知られないよう気をつけていましたが、やがて露見してしまいます。ところが天皇は怒るどころかむしろ義貞の恋を叶えてやろうと、義貞を呼んで酒食でもてなし、
「勾当内侍をこの盃に付けて……」
と言いながら酒とともに勾当内侍を義貞に与えたのです。
 女性をまるで物のように扱った話ですが、当時はこれが「粋な計らい」と捉えられていたようです。
 義貞と勾当内侍の恋自体は史実と思われますが、義貞が勾当内侍のせいで出撃を遅らせたというのはさすがに太平記の創作でしょう。

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