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30年日本史00859【建武期】童付の戦い

 ここで、九州にいる足利尊氏に目を転じます。
 九州の勢力地図については鎮西探題滅亡の稿(00808回参照)でお話ししましたが、ご記憶でしょうか。軽く復習しておきましょう。
①菊池武時・武重父子は少弍貞経・大友貞宗と連携して鎮西探題を滅ぼそうとしていた。
②幕府方が強いと見た少弍貞経・大友貞宗は突如として菊池を裏切り、菊池武時を自害に追い込んだ。
③その後幕府が劣勢と知った少弍貞経・大友貞宗は、幕府を裏切って鎮西探題を滅ぼした。
 菊池があまりに可哀想なお話でしたね。
 見てきたとおり菊池家にとって少弍家は親の仇に当たり、今後何度も戦うこととなる因縁の相手です。
 さて、尊氏が朝敵となった後の九州情勢はというと、少弍・大友が足利方につき、菊池が後醍醐方につくこととなりました。菊池の態度が以前から一貫していたのに対し、少弍・大友は幕府についたり裏切ったりフラフラしていたわけですから、ここで足利方につくのも頷ける話ですね。
 この菊池家が、尊氏の大いなる敵として立ちはだかるのです。
 話は少し遡り、尊氏が九州に到着する前の話となりますが、建武2(1335)年12月23日、少弍頼尚は九州中の武士たちに足利家に味方するよう呼びかけました。
 これを知った菊池氏は当然激怒します。当時、当主の菊池武重は後醍醐天皇に仕えるため上洛しており、このとき留守を預かっていたのはその弟の菊池武敏(きくちたけとし:?~1341)でした。
 12月30日。少弍討伐に乗り出した菊池武敏は、童付(わらわづけ:福岡県太宰府市)で少弍方の安芸貞元(あきさだもと)・詫磨貞政(たくまさだまさ)に戦を仕掛けますが、敗れました。菊池武敏は拠点の菊池城(熊本県菊池市)に敗走しますが、少弍方に追跡され、城ごと陥落するほどの大敗北を喫してしまいます。
 居城を失った菊池武敏は、阿蘇惟直(あそこれなお:?~1336)の庇護を受けて阿蘇(熊本県阿蘇市)に潜伏することとなりました。阿蘇家といえば、阿蘇治時が鎌倉幕府の命を受けて上赤坂城の楠木正成を攻撃したことがありましたが(00768回参照)、この阿蘇治時は「阿蘇流北条氏」の一員なのに対して、阿蘇惟直は阿蘇神社の大宮司を務める家柄であり、阿蘇流北条氏とは別物です。
 一敗地にまみれた菊池氏ですが、ここから勢力を逆転させていきます。

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