脱存的力の現れによる綻と新しき構造物、新種としての非体的発達



意識の基盤とその雛形

生きものはその存在の違いから
意識としての雛形を個別に用意される。
その形状には無論大きな違いがあるといえるが
無変化で在り続ける真理から流れでる、イトは雛形を貫き捻り束ねられ意識として扱われてきた。
この時用いられた形状の雛型こそが本来的にはその生命たる所以だと言える。
サピエンスの歴史に見てもその形状にはいくつかの種類が見られる。

果たして一つの生命種においてその雛形は変化しうるか、
例えば進化を捉えたとして、それは生態的なもののみで片付くことなのだろうか?
分類と呼ばれるものに当てはめた時、
同列である筈の種の表面内部には夥しい程の思考形態が存在するが、このインフレーション自体はどの時点で生命にもたらされたのだろうか、
我々の理解では掌握不可能な形態を意識は有している、
やはりこの変化こそが進化という言葉の基盤と言っても差し障りはないかに思う。
形態や、形質のみではあまりにも不十分な程の違いという物がそこには在り、
形を認識できるからこそ理解に及ぶ進化の分類を押し進めてはきたが、理解不能に至る分野迄視野に入れたなら、進化という言葉の意味は、もはや思考が追い付いていけるレベルをはるかに超えているのは明らかだ。

大成した霊長である我々人族の中にも、通常の思考にとどまることの出来なかった幾つかの生命もある。
もともとはその意識構造においては通常ならば遺伝子上、大きくずれる事も無く、お互いに理解の範疇に収められていただろう。

しかし、時間の経過、知識の質や量、感情、感覚、その他の様々な要素において結果的にはその認識において大きく変化が齎されてしまったのは確かだ。
或いは何らかの違いがどこか生体内にあったことも考えられるが、それが、遺伝子情報なのか、糖鎖の情報なのかそれとはまた別の何かがあるのかは現代の化学ではわからないが、結果として違いという問題が生じる以上、
生命の特異性というものはこの身体のどこかには隠されているのだろう。
そしてその特徴が表出するまでには間違い無く長い年月を要する、

理由は単純だ、
遺伝子がそれを求めたからだとしか言いようがない。
勿論蓄積と、交差による情報の結果が生み出したとも考えられるが、そもそも我々には目的と結果がどう前後しているのかすらわからないほどのスケールを、これらは有している。

所詮目的も結果も、真理においては後天的産物である。
無変化で在り続ける真理が有するのは、あくまでもそれぞれの存在のみで在り、意志、意図すらも、後天の産物とも言え、それが先天の産物だと錯覚するのは人間の人間たる所以だとすら思え、そこに至ってはある意味獣以下だとも言える。

同一種族において、後天的に生まれた変化、そうである種とそうでない種にはなんの違いがあったのか、恐らくそれは形状の維持力に違いがあったのだろう。

本来の基盤の形がどうであれ、現状人族に認められる多くを占める基盤、
頑なに、その形状を変えず、束ねられたコトを一つのベクトルとして世界を認識しようとする力は本質的には全体にたいして変わらなく、それはその形状にとどめようとする実存としての力がある。
簡単にいうと、見た物が、見たものとしてしかどうしても見えない、や
どうしても見えない物が信じれない、そういう頑なさは
その、基盤の硬さゆえだが、
ひとたび実存において物事の追求を始めたならば
思考の自由度は低下し、万物のスケールは異常な状態にまで低下していく
だろう。

言っちゃ悪いがフラットアースや、陰謀論と言ったものも極論言うなら実存の成れの果てでしかなく、
見えるもの、見えたもので塗り固めた世界は不安定な狭小性に流れていく。

実存の力と脱存の力


存在するコトの力、いわば真理的後発性の特徴において、この基盤におきていることがあると考えるなら、
2種の力の関わりで認識に変化が生まれている。
一つは、実存としてその基盤の強度を守る力。
もう一つは脱存としてその基盤の強度を弱める力

問題はこの脱存力が、もたらす影響だが、ニュアンス的には弛める、溶かすなどでもあるが、
簡単な話一度束ね纏められていた筈の コト に結果的に綻びを与えることとなる。

確かに実存力による何らかの変化も考えうるが、
脱存力がもたらす変化とは根本的に違いがある、
変化の対象や、特徴が違う。
それは意識の基盤じたいを変化させうるかという事でもある。


実存における変化とはあくまで束ねられたイトの太さであって束ねられたイトをより細く変化させる事で頑なさを尖らせ、
その他のイトの要素を損壊させ亡きものにしてしまう。
つまりはそれのみなのである。
その他の認識や可能性、考えの範疇は取り除かれ思考はそれのみに偏っていき、
あるであろうその他の可能性らは陳腐な枠組みに押し込まれ、その思考性から見たときそれらは許されざる存在へと作り替えられていく。
基盤などはあいも変わらず変化せず、同じ状態の維持が続くのみであり、これは確実におきている。


一方で、脱存的力の影響を受けた意識の基盤は変容的であり、形状をとどめておくことが出来ず最終的には空間に溶け出していく、まである。
つまり意識という形態が自己ですら認識できなくなるわけだ。
これらの場合本来仕込まれた筈のイトは散在し、多方面へ向けて煩雑さを持つようになる。
イトが解かれるわけだ。
そうなった種は認識や、興味をそもそも他方に持つ習性もあり知覚的に利用される感覚も千差万別となる。
簡単にいうと
実存的認識ベクトルが自己の目線上のみあるのに対し、
発散的な認識のイトを用いる種は、脳や、五感、身体全身、ましてや、固体的枠組みから離れた領域にまで達する
ことが可能である。

本来の意識の流れ的な話をするなら、
物質の進化、発展における反比例的な変化が、意識にはおきていたという事でもある。
本来万物が無的真理としての存在であった時に空間全体を満たしていた意識、
無から有が生成される過程で起きた物質の獲得と依存における変化が、意識の基盤に(カタチ)を与えたのだろうと思う。
脱存的力による基盤の変化は純粋に先祖返りと同じことでもあるのだろう。

イトとイトにより生成される構造物

実存者は実存者同士の営みの中で、
その存在を確かなものとして共有する。
脱存的部位は共有し難いが為に淘汰される。

我々にはそもそもまともな話し相手がいない。
まともに話せる相手を探すなど至難の技だった。
ネットなどの関連すら持たずに生きて行くなら、
ワタシのようなことを考える輩など単純にゼロと言っても言いすぎではないと痛感する程には他者との共感性は皆無に等しかった。
共有不能な感覚を有す以上、よりそれらは孤立的になり、発散されたイトは、ただ発散しているだけで、
本質的にはなんの意味も持つことさえあり得ないことだった。
なんの発展も成果もなく、生まれてそして、埋もれて死んでいくのが関の山だった。

この発散したイトが、例えば事実に基づいたものだと条件を付けたとするが、その場合コレは一部の種において共感性を生じさせるが、発展させる事も出来る、だれて終わった筈のイトは結びつく。
実存的な共感性の瞬間においてはそもそも同じ太さの状態になったイトしか共感性を育まない。)
そしてそれ自体がいくつも結びつき特殊な巨大な構造物へと発展していき、構造自体は
神経ニューロンや、宇宙の大規模構造であるグレートウォール含め構造的には全く同じ作りをしている。

人間における意識というものはあくまで、どこまで行っても個人以上を脱することはないが、
このように結びつき、個人の領域を脱し始めたイトは
もう既に個人のものですらなくなる、
これまでは、真理から照射された無変換で純粋なイトそのものは生命の意識の中で手繰り寄せられ個別での認識があるに過ぎなかった。
しかし、この先もしこの意識のカタチが脱存的力の元、
先祖返りを繰り返しつつ、かつ、大規模な構造へと形態を変化させていくのなら、
真理の名の元に拡がる、意識における明確な世界が構築されていくはずなのである。
真理がこれを結果的な産物として、展開させる、意味も目的も、ワタシにはまだわからない、
そう言い切れる理由は、
おそらくこれはまだ存在していないからとも言える。

ただ私達のように世界から弾かれた精神体系は
本来このような真理のイトの性質上その造られていくであろう世界の一瞬を担う重要なイトだと私は感じる。

意識とは個体の中に宿っている部分とは別に、
明らかに存在している部分があり、
それは非体としての意識の発達の可能性を残している。
個人を超えた複合的構造体としての非体である。
新種として作られていくであろう、未発達なそれらのイトがいずれ、成長し、非体としての重さを放ち
新たに世界を席巻していくことを、
或いは世界の根に沈んで行けることを。

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