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手に入れる前のが楽しかったと思う人が知るべき3つの価値ー芋粥を飲み干した君を救いたい

あなたが憧れを終わらせなければ、憧れがあなたを終わらせる。

憧れは、身を焦がす。生き残るには、憧れを解体しなければならない。
解体する一番の方法は理解して、そして手に入れる事だ。手に入れたら最後、憧れの放つ怪しい輝きは急にその光を失う。

だが、本当にそれで良かったのだろうか。

夢にみた第一志望に合格する、憧れの異性と付き合う、一番入りたかった企業から内定をもらう――これらのイベントで、目標を目指していた時が一番楽しかった、という経験をした人は多いだろう。

最近アマプラで配信されているチェンソーマンでも主人公がこう言っている。

俺はずっと追いかけていたモンをやっと掴んだんです
でもいざ掴んでみるとそんなモンは…俺が思っていたより大した事なくて……
(中略)
追いかけてた頃のほうが幸せだったって思うんじゃねえのかって…
そんなの…クソじゃあないですか…』

チェンソーマン

もしこの問いに理由をつけて「クソじゃないよ❤」って言い切れるなら、十分一人でやっていけるだろうから、ブラウザで戻るなりページを閉じるなりして大丈夫。

でも、そうじゃない人は、この記事が助けになれるかもしれない。

あなたの芋粥のたどり着く場所

芥川龍之介の「芋粥」という作品がある。(青空文庫で無料で読める)

芋粥をたらふく食べるのが夢だと語る主人公に、貴族が面白半分で自宅に招いて芋粥をたらふく食わせようとする作品だ。主人公は自分の夢がかなった結果、自分の中の芋粥を食いたいという夢が急速に萎えていくのを自覚した。

人それぞれに夢や憧れがあり、この主人公の場合はそれが芋粥だったわけだ。ブラウザバックで戻らずにこれを読んでいるということは、あなたにもきっとあるのだろう。自分だけの「芋粥」が。

芋粥を追い求めて、それを手に入れた後、手の中で輝きが失われたのであれば、芋粥を追うのは愚かな事なのだろうか。

目的と結果をはき違えるな

夢を叶えるというのはフワフワ、キラキラした行為ではない。憧れを討ち倒し、夢たちの屍山血河を築くことだ。

渇望の輝きを塵芥に変え、世の万物をして理解され尽くした無価値な瓦礫の山に変える行為にほかならない。しかし、それは目的ではない。

レストランの目的は何かと聞かれて、「糞便を作るところ」と答えるのはよほどのひねくれ者か逆張りオタクくらいだろう。

食事の結果糞便が生成されるのは、単なる結果だ。目的ではない。目的は人によるだろうが、食事を味わったり、誰かとテーブルを囲んだりといった体験を求めている人が大半だ。

体験は過程に宿る。もう一つ例え話をしよう。登山客の多くが求めているのは過程だ。ロープウェーに乗ったって良いし、極端な話、山頂からの景色ならライブカメラでもインスタでもいくらでも見られる。

時間も労力もかかるのに、あえて自分の足で登っていくのは、登山客にとって、時間や労力は失われるコスト、支払うべき対価ではない。むしろ価値だ。

もっと日常の話をしたって良い。恋人や友人と行列店に並んだり、小さなトラブルに遭遇したりするのも、マイナスではなくむしろ価値だ。共通する思い出が生成されるバリューが発生する。

過程に体験は宿り、思い出は過程にこそある。だがそれだけではない。自分にとっての「芋粥」というものは往々にして簡単には手に入れられない。そもそも簡単に手に入るものなら、誰だってすぐに手に入れて、強く恋い焦がれはしない。だからこそ、「芋粥」を追い求める過程で困難に直面し、それを克服するために意志や成長が生まれる。

巨視的スケールで打ち消されないもの

過程重視か、結果重視かはよく論争の的になる。仕事なら結果重視は当然だが、それを自分の人生や生き方、あり方にまで持ち込むと急に息苦しくなる。もし結果重視というのなら、その未来は明るくない。

自分がデザインした商品はやがて廃盤となり、自分が助けた人はいつか死ぬ。都市計画や歴史的名画を作れば多少長持ちするがそれでも数百年後以降は怪しい。

あなたがいかに偉大になっても、何を成し得ても、死後にどれだけの碑文が立ち、英雄譚が語り継がれても、皆が等しく平等に、最後には忘れ去られるのだ。

だから客観的な結果を人生の判断基準にするのはとても危うい。巨視的にはあらゆる結果が無価値になるとわかれば、おのずと人生を貫く指針は、自分の主観としての過程、経験、思いといったものに頼らざるを得ない。

JoJoの奇妙な冒険でも名もなき警官が言っている

わたしは“結果”だけを求めてはいない。“結果”だけを求めていると、人は近道をしたがるものだ…
近道した時真実を見失うかもしれない。やる気も次第に失せていく。
大切なのは『真実に向かおうとする意志』だと思っている。
向かおうとする意志さえあれば、たとえ今回は犯人が逃げたとしても、いつかはたどり着くだろう?向かっているわけだからな…違うかい?

JoJoの奇妙な冒険 第59巻

一つの計画や年単位での進歩を定量するために、結果を用いるのは適切な使い方だ。だが、一つ一つの計画を超えて、自分の人生の達成度を推し量るにおいて、結果という評価軸は膨大な時の流れを前に結果は打ち消されてしまう。

一方で主観的ではあるが、その過程で得られた意志や成長というものは打ち消されない。新たな艱難辛苦を前にしても立ち枯れにならず、より強固なものへと更新されるだけだ。つまり過程や経過そしてそれを通して得られる意志や成長、これが芋粥を獲得した時に手の中に残る価値の1つ目だ。

解体された憧れの瓦礫の上に残るもの

芥川龍之介の芋粥で主人公の男は、憧れの中にあった腹いっぱいの芋粥を、ついに現実のものとして見て理解してしまった。それ故に憧れのまとっていたベールが剥がれ落ち、途端に精細を欠いたように感じたのだ。

では芋粥の価値が地に落ちたのだろうか。そんな事はない。芋粥の価値はその日を境に変わってはいない。

むしろ無理解ゆえに、憧れの曇りの向こうに見えていた芋粥が、理解して真の姿を見せたのだ。今までの見方が間違ってただけで。

これは何も芋粥に限ったことではない。学歴でも恋人でも地位でも同じ。たとえば思春期は付き合っては幻滅してを繰り返す人はめずらしくはない。でもそれは幻滅なんかじゃなくて、恋で濁っていた視界が、真の姿で相手を理解できるようになる。それって幻滅よりもずっと幸せなことなんじゃないだろうか。

何かを手に入れてから、(追いかけていた頃のほうが幸せだった)と思うのなら、おめでとう。あなたは芋粥の真の姿を今やっと正しく理解したのだ。

ようこそ、現実へ。もう独りよがりな思い込みに踊らされずに済む。君のこの幻滅は、世界からのささやかながらの祝福だよ。

そしてこの祝福で、見えている世界があまりにもガラッと変わったから、君は何か勘違いしているかもしれない。今見えているものが世界の全てであり、そしてこの幻滅した見え方はこれ以上変わりようがないと。逆だよ、逆。今やっと自分の幻想の世界を脱して現実のスタート地点に立ったんだ。

知識をつける事で見えている世界がかわる事は広く知られている。憧れのベールが剥ぎ取られてはじめて、今日この日から芋粥もその他のものと同じように扱えるようになったんだ。

つまり、ちゃんと理解し、そして深く知る事が出来るようになった。
最初のうちは知らなければよかったと思うことでも、十分に知れば、知らないほうが良かったとは思わなくなるだろう。これ以上言葉を尽くすより、このネットミームのほうが雄弁だ。

渇望というベールをはがし、自分が追い求めていたものの真実の姿を知る。これが芋粥を食べ尽くして残る価値の2つ目だ。 

いつか未来の糧へと変わるもの

現実を直視する道が始まったのは確かに価値があるとして、やわらかな幻想の日々の失った悲しみはそれもまた確かに存在するだろう。藤原道長が満月を詠んだように、満月は必ず欠け、平家物語が教えるように盛者必衰の理からは逃れられない。

もし自分が今、何かを追いかけている幻想の日々の中にいるのなら、幸福だ。だが、いずれは夢が叶うか、夢に破れるかのどちらかとなる。そしてそのどちらもが、追っていた頃ほどの胸の高鳴りはないだろう。

だから幸福のど真ん中にいる時でも、その幸福に浸らずにいつか来る終わりを見据えて冷徹にMemento mori(いつか来る死を忘れるな)とつぶやくべきなのだろうか。

その必要はない。
 
憧れを追う楽しさはいつか終わりが来て、消える。だが、楽しい時間があった、という事実は消えない。その時間を振り返って「楽しかった」と思い返すことだって出来る。

志賀直哉の「小僧の神様」はそれをうまくカリカチュアライズしている。少年が寿司にあこがれていた時、タイミングよく奢ってくれた貴族院議員を神様だと思い込む話だ。出会いはそれきりだが、以後少年は悲しい時、苦しい時にもその神様がそばで見守ってくれているような気がして元気を出していた。

「芋粥」を追う時間というのは、それ自体が「神様」みたいなものだ。自分の人生の中に、たった一瞬でも輝いていた時間、楽しかった時間があれば、いつか苦境に立った時、その記憶が自分を奮い立たせてくれる。

もし追いかけていた時間が幸せで、「芋粥」を飲み干したあとに幻滅を感じたのならば、なおさら幸福な時間が終わる瞬間の苦しみだけで、楽しかった過去を遡って否定すべきではない。その幸福は、終末のたった一瞬の苦しみだけで打ち消されるほどに小さいものではないはずだ。

芥川龍之介の「芋粥」の男の幻滅は、芋粥を追っていた日々を失う喪失にフォーカスしている。一方で志賀直哉の「小僧の神様」で寿司をごちそうになった小僧はごちそうの日以後の未来にこの日の事を振り返っている。

我々がつぶやくべきはMemento moriではない。むしろその対となる「Carpe diem(今日を楽しめ)」に他ならない。いつか楽しい時間に終わりが来るかもしれない。だとしたらなおさら、終わった後にちゃんと思い出せるように、今日という日を楽しむべきなのだ。今後、困難に直面した時、楽しかった記憶が糧となり力を与えてくれる。

夢は解体されてなお、文字通りあなたを支える血となり肉となる。これが芋粥を飲んだ者が手にする3つ目の価値だ。

自分の「芋粥」を飲み干してしまった者たちへ

「芋粥」を飲み干した者は3つの価値を知る事になる。
1つ目の価値は過去にたどった過程と成長だった。
2つ目の価値は今まさに現実の地平に立った事だった。
3つ目の価値は未来にあなたを勇気づける事だ。

もしかしたらこれを聞いて、なんだそんな当たり前の事、と思うかもしれない。

そうだよ。当たり前のことだよ。でも今までの人生を振り返れば、大きな学びというのは、往々にして当たり前で、気づいた途端に「当たり前だ」「大したことない」って思ってしまうものだ。

これもある意味芋粥と相似形を成しており「学び」が手に入る事で、学びの内容に幻滅する。だからこそ「あたり前の事」に気づくために膨大な時間も労力もかける価値はある。もしかしたら人生をかけた勝負の結果、手元に残るものは、当たり前の代わり映えしない結論かもしれない。

がっかりする?

ワクワクするの言い間違えじゃなくて?

むしろ脳から汁が滴るほど興奮しないか?自分の人生の最後の最後に一体何をもって「こんな簡単な答えに気づくのに、人生をまるまるかけてしまった」と呆然とつぶやくのか。

多分その答えはずっと前に、もしかしたら未成年の頃に既に触れている概念で、70年近くの遠大な回り道をしてそれに気づいていくんだ。あらゆる物語よりも長く遠い、そして見事な伏線回収が人生の最後に待ち構えているんだ。

あなたが憧れを終わらせなければ、憧れがあなたを終わらせる。
こんな見事な伏線回収を見ずに途中で打ち切られるのはまっぴらごめんだ。もし君が最初の「芋粥」に手を伸ばしているなら、伸ばし続けろ。
ためらいなくそれを掴み、遠慮なく飲み干したらいい。

おそらく、「芋粥」はつまらないものに思えてくる。だが、それでいい。君は成長し、芋粥を知り、そして振り返る大切な思い出ができた。でもすぐにまだ自分の飢えも渇きも満たされていない事を思い出す。次の「芋粥」を、次の次の「芋粥」を探し、盃を干し続けろ。

世界を飲み干し、食らい付くし、憧れに満ちた世界を、取るに足りないガラクタの山に変えていけ。

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