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自分の物語の始め方ーやりたい事が見つからない人へ

生殺与奪の権を他人に握らせるな、とは鬼滅の刃の名言の一つだけど、もう一歩踏み込める。つまり、他人に委ねちゃいけないのは何も行動や意思決定の主導権だけではない。

快・不快のスイッチ、つまりは価値基準も他人に委ねちゃいけないんだ。

それらを他人に握らせれば最後、他人より秀でているかどうか、世間から評価されるかどうか、誰かと自分の差をアピールすること、つまりはマウントを取ることでしか快感を生み出せない人間になってしまう。

いや、もうそれは人間と呼ぶほどのもんじゃないね、ただの毛のない猿だよ。

そしてハカセは前の記事で、価値基準を外部に置く人と自己の中に見つけた人を対比して、主人公とモブという表現をした。

1.  自分の自身や自分の好きな物の話を主体的に発信する人(主人公)
2.  1番のような人に対する攻撃や粘着に時間を費やす人(モブ)

楽しいを見つけるために

主人公とモブはいつも対照的だ。セカオワも歌に歌っている。

いつだって物語の主人公は笑われる方だ、人を笑う方じゃない

SEKAI NO OWARI「サザンカ」

自分の「楽しい」を見つけ、モブに構わず、ただひたすら「楽しい」の中を、自分の物語の中を生きていける人が主人公になりうる。あなたがもし笑われているとしても、笑ってるのはモブだから気にしなくてもいい。モブは何も成し遂げられない。

ならモブに救いはないのですか?そこになければないですね、というのをぐっとこらえ、ここからは主人公と、まだ己の主人公回を迎えていないバイプレイヤーというテイで話を進めていこうと思う。

なに、そんな突飛な前提じゃないさ。発展の見込みがないほど政府が腐敗し民間は犯罪の巣窟となった未来のない国家でも我々は発展途上国と言うし、その中でも特に救いのない詰んだ国を後発発展途上国と呼んでいるじゃないか。肩の力を抜いていこう。

自分のやりたい事を見つける。今じゃ猫も杓子もみんなこのお題目をありがたがってる。時にはやりたい事を探すために大学生が東南アジアの貧民街まで出かけて交流ごっこしたり、インドを放浪したりまでする。

確かにやりたい事があれば、自分の物語は勢いよく始まるだろうし、他人についてごちゃごちゃ言うより、自分の好きな物の話を目を輝かせて発信するだろう。

でも、それはむしろあればラッキーなもので、必ずしも常にいつもやりたいことがあるわけではないし、人生を賭けるに足るほどのライフワークだってそうそう見つかるもんでもない。

だからそうやって進路が五里霧中になった時に人はインドや東南アジアを放浪しがちだけど、残念ながらどこまで遠出しても霧は晴れない。霧の中にいると気付いたなら、やるべき事は2つだけだ。

・正しい方向に一歩ずつ進むこと
・一歩ずつ進めば霧から出られるので無理せずその時が来るのを待つこと

生き甲斐より死に甲斐で考える

正しい方向とは何か。自分のやりたい事に近づく道をここでは正しい方向としよう。人生には数多くの選択肢がある。人によって選択の基準は様々だが、大事なことは一貫していることだ。すでに自分の基準が確立しているなら、毎度それに従うだけでいい。

もし基準がないなら、一つ助言することができる。生き甲斐より死に甲斐で考えるということだ。このためになら人生を捧げてもいいと思えるものに出会えたなら幸いだけど、そんなドラマチックな出会いがなくても「この選択をしなかった事を人生最後の日に後悔しないか」と自問すればいい。もしその答えが「後悔する」なら答えは簡単。やったほうが方がいい。

もちろん挑戦の代償がゼロコストでもない事は多い。無一文になったり、命を落としたりする挑戦だって世の中にはある。そういった帰結は一般的には悪い事として語られがちだ。しかし、天寿を全うしたとして死の床で挑戦しなかった事を後悔する苦痛というのは往々にして過小評価されがちだ。

生き甲斐を見つけるのは難しいが、この選択をしたから死ぬ時の後悔が減った、という死に甲斐は案外見つけやすい。正しい方向に一歩ずつ進むというのは、選択肢という岐路に出会うたび、毎回それを自問するということだ。

「楽しい」の毒を知る

何かを新しく始める時の自問が死に甲斐だとするなら、何かを続けてる事を辞めるかどうかの自問は「楽しいのか楽なのか」と言える。楽だから続けてるのであれば、惰性で続けてないか今一度考えるべきだろう。継続は力なりとも言うが、それこそ単なる毎日の呼吸を漫然と続けても、呼吸の達人になれるわけではない。

別に楽するのがいけないと言っているわけではない。ただ往々にして楽な道と楽しい道というのは別々で、そして油断すると楽と楽しそうを取り違えてしまう。でも、ちゃんと見れば見分けるのは難しくない。楽というのはそんなに心が動かない、もしくは心が落ち着く方だ。

楽しい事というのは多かれ少なかれちょっとした毒性も持っている。心が高鳴るだけじゃない。寝食を忘れて没頭する、体に無理強いして膝や腰を痛める、人間関係を疎かにしてのめり込む、だれかれ構わずついついその魅力を熱弁してしまう、これらの症状は趣味であれ仕事であれ「楽しい」の持つ毒性の片鱗だ。

さらに深く踏み入れると怖さも出てくる。自分がそれを成し遂げられないのではという怖さ、それをいつか好きじゃなくなるという怖さ、あるいはもしかしたら、それ以外の全てを捧げてしまいかねないという怖さ。

楽しい事というのはこのように、およそ安らぎや平穏とは遠いところに属してる、刺激的で恐ろしい顔も持っている。このような毒、平穏な暮らしを妨げる要素にしかならないこの危うい魅力の匂いを感じたら、今続けていることは、きっと続けた方が楽しい。

卵が孵るためには

2つ目のコツは焦らずに霧が晴れるのを待つということだ。禅宗の教えに啐啄同時というものがある。

卵から雛が孵る時、内側からつつく(啐)前に親鳥が卵を啄(ついば)めば、未成熟な状態で卵が破れ死んでしまう。一方で内側からつつかれても親鳥が卵を啄むタイミングが何日も遅れれば殻が破れず卵の中で死んでしまう。

師と弟子がともに機が熟したタイミングで共同することで、弟子は殻を破って新しい世界に誕生する事ができる。

これは師を人間以外においても当てはまる。周囲の環境と自分の経験の両者の準備が整ってはじめて、やりたい事が見つかる。つまり殻を破ってこの世界に主人公として生まれ、自分の物語を生きる事ができるということだ。

そしてこのタイミングというものは、自己決定権の埒外にある。人によってはそれを発酵や熟成に例える人がいる。そういう人もいるのかもしれない。でも緩やかだが連続的に確実に進む熟成のような実感は自分にはなかった。

弓道の言葉に雨露離というものがある。矢が放たれる時は、放すのでもなく放されるのでもなく、雨露のように離れるべきだという教えだ。葉先に溜まった雨露が、徐々に大きくなりそしてある瞬間に突如、かつなめらかに葉先を離れ自由落下していく。啐啄同時のタイミングもそんな感覚に近い。葉の大きさや形、雨の激しさ、あるいは水以外の液体の粘性により水滴の落ちるまでの時間は変わってくる。

そんな時に無理に葉をゆすれば水滴が大きくなる前に振り落とされるだろうし、あるいは落とすまいと葉を上向きに保てば別の所からこぼれ落ちるだろう。やりたいこと、すなわち自分が没入できるもの、あるいは自分の物語を見つけるというのもこれと同じ。

自分の物語の最初の1ページ目をこれからめくるあなたへ

やりたいことがない、そんな時何をしたら見つかるのか不安に思うだろうし、自分自身も学部低学年の頃はそんな感じだった。でもやがて見つかった。

Twitterの方で開設している質問箱にもたまに「いつまでにやりたいことを見つけたらいいですか」という質問が来る。気持ちはわかるけど、焦る必要はないんだ。

だってもし本当に「やりたい事」が大事だと思っているのなら、5W1Hのうち、Whatが大事であり、Whoはあなたで、次に大事なのはWhyだろう。なぜそれをやりたいのか、何をやりたいのか、というのは根幹に関わるからだ。一方でWhenやWhereはそれらに比べて優先度は劣る。Howというのは人によってはそこそこ大事かもしれないが、それでもやはり「何をしたいか」よりも上位には来ない。

そして覚えていてほしい。自分の物語の「主人公」になるのに、年齢制限はないんだ。インターハイ出場とか国家公務員総合職になるといった目標とこ異なり、自分の「好き」を見つけて、その楽しさの中に生きるという事に年齢制限はないんだ。

今日はガラにもなく自己啓発みたいな内容を書いてしまったけど、それでもやはり世界には主人公が増えてほしいんだ。他人との比較の中でしか生きられない生き方を卒業し、他者ではなく自己の中に価値基準を内包した人がいたら世界はもっと愉快になるよ。それが平和な世界かどうかはわからない。違う価値観のぶつかり合いかもしれない。でも、主人公同士のバトルというのは飽きないし、モブのモブによる画一的な足引っ張り合いの世界より、主人公たちがぶつかり合う、それこそが豊かな世界だよ。そんな世界を見ていたいね。


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