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この春旅立つ、君たちへ。

どんな気持ちを抱くのか。

それはいつも、本当には、自分自身がその立場にならなければわからないものだと思う。

長く生きれば生きるほど、出会いと別れの経験は積み重なっていく。時間が経てば薄れていく感情というのもあって、けれどもふとした瞬間に、ある景色を見て、ある香りを感じて、その時の感情が思い出されたりもする。

いわゆる、「エモい」ってやつだ。

そして卒業というイベントも、そんな「エモい」出来事の一つだろう。

僕たちは多くが16年間を学生として過ごし、それぞれの段階で卒業を経験する。送る側と送られる側、という2つの立場で経験するから、実質的には毎年のように卒業を経験していることになる。

そんな送る側でも、教師として送る、という経験は、教壇に立つ経験がなければすることができない。ちょっとした特権である。

そしてその特権を得てはじめて、「先生」という立場の人がどのような気持ちで教え子たちを送り出すのか、ということがわかる。

一般的に「先生」という仕事は子どもたちのそれぞれに寄り添って、彼らにとって人生の良き見本となる、支えとなる、という与える側のイメージが強いように思う。かく言う僕自身も、「子どもたちと対等な関係を」なんて大学院にいたときは考えていたけれど、そもそもその発想自体が僕を子どもたちより上の立場にいることが当たり前だと想定していたのだな、と思う。

教師は確かに生徒を支え、生徒に寄り添うことが仕事の一つではあるけれども、僕たちもまた、彼らに支えられているんだ。

卒業してがらんとした空気の漂う教室を見て、そんなことを思う。

卒業してくれば、彼らはもう登校してくることはない。遊びに来る子たちはいるけれど、教室に「おはよう」と入ったり、質問に職員室にやってくる生徒を迎えることもない。

もちろん年度が変われば新しい生徒たちと出会うのだけれど、それは僕が心血を注いで、力をかけて、くだらない話もたくさんした、あの生徒たちではない。

挨拶もかわる。

卒業を控えた学年でなければ、きっと多くの子どもたちに「また新学期に」と手をふるのだろうけれど、卒業させたあとは、「またいつか」になる。

なんだか、自分を信じてくれていた(かどうかはわからないけれど)味方を失ったような、そんな心細さと寂しさとが入り混じった気持ちを感じるのだった。

それは、きっと幸せなことなのだろう。

世の中にはきっと、早く卒業させたくてたまらない先生もいる。生徒の側だってそういう場合もあるだろう。

でもこうして名残惜しいと思える生徒たちに出会えたことは、きっとそれだけ、君たちがいろいろなものを僕にも与えてくれていたからなんだと、そう思う。

こんな感情、正直自分が送り出す側に立つまで、よく分からなかった。

確かに送られる側にいたあのとき、泣いている担任にもらい泣きをしたこともある。

でもそれは、多分もらい泣きをしたということと、友達と一緒に過ごした日常がなくなる、ということのほうが大きかったような気がする。

だから、保護者の方に「ありがとうございました」なんて言われると、なんか申し訳ないような気持ちすらする。

実はみんなに、たくさん支えてもらっていたんだよ。

だから、ありがとうね。



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