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月に1冊ディックを読む➃「流れよ我が涙、と警官は言った」

今年の1月から毎月1冊、ディックの長編を読んでブログに書くことにしました。ディックは高校から大学にかけて読みふけったSF作家の1人です。凄く自分の価値観に影響を与えているのか、価値観が近いから読みふけったのか…。「ユービック」「火星のタイムスリップ」「パーマー・エルドリッチの三つの聖痕」の次に選んだ4冊目はコレです。皆さまも連休にはディックをいかがですか。

【この作品が書かれた年】1974年

【この作品の舞台】1988年

【この作品の世界に存在する未来】火星のコロニー、飛行艇、スイックス、電話回線によるセックス・ネットワーク、ゼラチン状に丸まったカリスト海綿生物、ID偽造者、読心能力者、ティドマンの断種法令、大暴動、おしゃべり人形陽気なチャーリー、円筒型上昇機、飛行艇、強制労働収容所、第二次南北戦争、多重空間抱合剤KR-3

【原題】「FLOW MY TEARS, THE POLICEMAN SAID」

【読んだ邦訳本】サンリオSF文庫3-D 友枝康子訳 1982年12月30日発行

完全直訳の邦題が好きです。ディック作品は素敵なタイトルが多いですね。そしてサンリオSF文庫の活字はハヤカワよりも少し小さいです。表紙画はどれもなかなか秀逸ですね。この本は確か、高田馬場のビックボックスの土曜古本市で購入したと思います。まだ、ビックボックスが赤かった時代のことです。

主人公は2人。毎週『ジェイソン・タヴァナー・ショー』というバラエティー番組で3000万人に支持され高視聴率を叩き続けていジェイソン・タヴァナー。そして、警察本部長であるフェリックス・バックマン。各章がそれぞれの視点から描かれています。そこに多くの個性的な女性キャラが次から次へと登場します。

冒頭で、ある女性に恨みを買い、ゼラチン状に丸まったカリスト海綿生物を投げつけられ意識を失うタヴァナー。目覚めたところは、スラム化した街中の安ホテル。時は警察国家であり、身分証明書なしでは生活ができず、強制労働所に送られる危険があるのだけれど、目覚めた時にはその身分証明書がなく、それだけではなくジェイソン・タヴァナーなる人物など誰一人知らない世界なのです。誰もが知る有名人が、一夜にして国家のデータバンクにすら記録のない「この世界には存在しない人物」になってしまったわけです。当然ですが、タヴァナーは自らのアイデンティティを取り戻すためにあらゆる努力をします。なぜか手元に豊富な現金だけは残っています。それと自身の魅力的な容姿と存在感もフルに活用し自らを取りもどそうとするのですが、いつしか警察にも追われる身になり…。しかし、徐々に世界は彼の存在を実態化してきます。まずは彼の歌うレコードジャケットが現れ、ジュークボックスから彼の曲が流れ、そして国家のデータバンクでも彼の記録が発見されます。しかし、バックマン警察本部長の記憶には著名なエンターテイナー、ジェイソン・タヴァナーの記憶はありません。終盤に出てくる多重空間抱合剤KR-3の存在。しかし、それを服薬したのは多重空間抱合剤ジェイソン・タヴァナーではなく、バックマン警察本部長の妹であり妻である強烈なキャラであり突然の変死を遂げたアリス・バックマンだった…。すみません、なんだかわかりませんね、この説明。つまり、実に面白い小説なんです。

相変わらず、現実の存在が脅かされ続けるストーリーです。てっきり、ジェイソン・タヴァナーが主人公だと思い、彼の目線で読み続けると、突然、バックマン警察本部長なる第二の主人公が出てきて、後半になるほど彼の目線からの描写が増えます。そしてよくよくタイトルを思い出すと、『流れよ我が涙、と警官は言った』でした。これは明らかにバックマン警察本部長のことです。ラストでは彼は涙を流していることにすら気づいていない自分に気づきます。それに対して、ジェイソン・タヴァナーは遺伝子操作によって創られたスイックスと言われる存在、おそらく涙を流すという感情を持てない存在なのでしょう。

最後に、ことの顛末の種明かしがあります。彼の妹であり妻であるアリス・バックマンが服薬した多重空間抱合剤KR-3が、彼女の頭の中に架空世界を生み出すだけでなく、それが彼女の頭から染み出し、他者の世界すら変えていったというのです。凄い発想です。もはや暴力的な社会構成主義ともいえます。

後にディック自身が本作について、以下のように書き残しています。

この小説を書いたのは、わたしの人生でも最悪の時期だった。あの時期が最悪だったのであってほしいね。あんな日々は二度と経験したくない。この本を書いているあいだにナンシーは娘を連れて家を出てしまい、それでもわたしは最後まで書き上げた。部屋が四つ、バスルームふたつの家にたった一人で住み、本を完成させようとしていた。テーマは自伝的なものになった。ナンシーを失ったことでひどく苦しんでいたから、警察本部長の妹を死なせた。そのあとで本部長が経験するすさまじい悲しみと孤独は、じっさいにすべてナンシーを失った悲しみに基づいている。

相変わらず、いけていない今のハヤカワSF文庫の表紙です。

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