立ちションをやめた話
下の話もなんだけど、数年前に「家での立ちション」をやめた。正直めんどくさかったけど、今は座っている。
※ここでは、屋外での「立ちション」ではなく、屋内の洋式トイレで、便座をあげて用を足す「立ちション」について話します。
恥を捨てて書くので、家で立ちションする人、言われてもやめない人(本人でも、ご家族、彼女でも)、特にやめる理由もない人がいたら、ぜひサッと読んでもらえたらと思う。たぶんやめたほうがいいから。元号も令和になることだし。(関係ない)
オシッコは立ってするもの、だった
昭和の末に生まれた男の自分にとって、オシッコは立ってするものだった。公衆トイレの小便器はスタンディングスタイルだし、家の洋式だって立ちションのためにフタがある(と思っている)。「男に生まれ変わったら立ちションしたい」と言う女の子もいて、あぁ面倒なのかなって。特に立ちション以外の選択を考えたこともなかった。
なぜなら、座るのはめんどくさい
はじめ人に諭されたものの、いまひとつその気になれなかった。座るのはめんどくさい。何がめんどくさいって、手順を並べて比較してみよう。
1.シッティングスタイル(座って用を足す場合)
①下を脱いで
②後ろ向いて
③座って
④用を足して
⑤狭いエリア内で水をふるい落として
⑥立って
⑦ズボン穿いて
⑧流して
終わり。これが立ちションならば、、
2.スタンディングスタイル(立って用を足す場合)
①開けて
②出して
③ふるって
④閉める
なんと、半分の手順だった。フタの開け締めもありそうだけど。まじめに考えたこともなかったが、座るより楽なんだろうな。肌感で思っていたことを並べて実感。『座るのがめんどくさい』これについて認めざるを得ない。ではなぜやめたのか。
それでも、立ちションをやめたのは?
6年前に結婚してから、家の洋式トイレに座るようになった。なぜ、楽な立ちションをやめたのか。
最大の理由はオシッコのハネ
ハネるんですよ。わずかな水飛沫で気にしなかったし、見えてもいないけれど。あれ、めーーーーーっちゃくちゃ飛び散る。滝のように。
便座、便器、便器の周り、トイレの壁、トイレットペーパー。四方八方に飛び散ってる。もちろん自分にもかかっている。多くの男性は気づきもしないけど。
実際、クシャミが飛び散る映像のようにみたら、たぶんすごいんだろう。むかし教室の先生がクシャミした飛沫が、教室の壁まで届く様子をみたが、他人の飛沫を浴びるのは不快だ。オシッコはどうか?で、それがどんな害になるのか?
ハネは蓄積する
掃除してるとき意識したらすぐ分かった。飛沫がホコリと一緒に蓄積して、壁際がなんかヌメヌメする。便座の裏とか、タンクの隅がすごいヌメヌメしてる。気にしたことない人がいたら、ちょっとトイレットペーパーで拭いてみてほしい。このヌメヌメは、ぜひ紙越しでも体感されることをオススメしたい。一見乾いていても、そこに触れれば、わずかな飛沫とホコリが蓄積していることがわかる。
これが生きてるあいだ続くのはどうだろう?理解できるなら、家族(独り身なら将来の)と分かりあえないこともないでしょう。
果たしたい欲と異次元の慈しみが交差する公衆トイレ
家ならまだ使う人が限られるが、公衆の洋式トイレ。これはワケが違う。不特定多数が「我先に!」「早くしたい!」などと生理的欲求を満たす。そして用を終えたら、誰も気にも止めないでしょう?
少し冷静に考えれば、不特定多数の飛沫が蓄積しているし、座面にダイレクトにかかっている可能性もあるし、正直なところ触れたくない。でも、そういう場所を掃除してくれる人がいるんですよね。
家で座れるようにならなかったら、家以外の場所に、こんな異次元のありがたみを感じることはなかったな。清掃員の方々、ほんとうにありがとうございます。だ。いま立ちションしているなら、このありがたみは感じづらいし、理解することも難しいと思う。
オシッコのスタイルは可能性である
家では、家族と。公衆トイレでは、利用者、清掃員、ひいては社会と(大げさか)。まさにオシッコは他者との接点になっている。
業界用語っぽく言えば、排泄インターフェースデザイン。皆で変えていけるなら、それはCSV(クリエイティブションベンバリュー)だ。(?)
とにかく男性は、立ちションからオシッコのスタイルを変えていくことで、他者とつながり、ありがたみに気づける可能性をもっている。もしかしたら、誰かが感謝してくれるかもしれない。でも、迷惑がないから感謝なんてなくても十分だ。そしてこう思えるはず。
「ハネない自分、かっこいい。」
大げさに言うが、何はともあれ、オシッコのスタイルは可能性である。
生まれてからの習慣を変えるのは難しい。めんどくささもなかなか。が、その姿勢を、想像と、家でのちょっとした行動から、変えてみてはどうだろう?きっと良い気づきが得られると思うのだ。
文末に、諭してくれた奥さんへの感謝を添えて
(曲は本文とは関係ない)
もし、サポートいただけるほどの何かが与えられるなら、近い分野で思索にふけり、また違う何かを書いてみたいと思います。