見出し画像

明智光秀と清和天皇

約400年前に明智光秀は京都の愛宕神社に参拝しました。本能寺の変の前年です。その時に光秀とその家臣たちもこの参道を通ったはずです。

彼らは参拝を終えたあとに水尾の別れを清滝方面に下山して、居城に帰ったと考えられています。
もし、その時に清滝ではなく、水尾の里の方面に寄り道をして、清和天皇の陵墓に立ち寄っていたら、歴史はどうなっていたでしょう?

清和天皇は生後数ヶ月で皇太子に任命された後に齢9歳で天皇に即位します。齢17歳の時に都の玄関口に当たる応天門が放火により、消失します。
その事件のあとに最側近の四人のうち3人が引退、失脚。そして、病気により死去してしまいます。その後も心労が重なったか?激務か27歳で退位、29歳で仏門に帰依、30歳で崩御します。
その清和天皇の遺言により都に近い水尾の里に埋葬されました。水尾の里は現在でも山に囲まれた集落に柚子畑が拡がる長閑な郷です。

明智光秀は当時の武家には珍しく京文化に詳しかったと云われています。
清和天皇と自分の将来を重ねていたら?
家臣が気を利かせて水尾の里に立ち寄って、「織田家の家臣としての務めを果たすべきです。」と諌められていたら?
山の中腹にひっそりと隠れるように清和天皇陵があることを確認したら?
歴史はどうなっていたのでしょうか?
歴史にゆかりのある場所を歩くと色々と想像が膨らみます。
京都には歴史があります。嵐山の山を越えた先にも掘り下げると色々とあります。

#エッセイ
#清和天皇
#歴史
#明智光秀
#戦国武将
#休日のの過ごし方
#京都

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?