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清貧の書・屋根裏の椅子

林芙美子については、どうしても『放浪記』を読んだ印象から、人生の酸いも甘いもを見てきた生命力のたくましい女性というイメージが、自分のなかで強かった。
ところが、本書の冒頭におかれた「風琴と魚の町」をひもとくと、尾道の舞台にアコーディオン弾きであった父親の記憶が、その音楽や音とともに語られるので、自分が経験したことのないかつてそこにあった日本社会やその風景がほうふつとされてきて、陶酔させられるような没入感があった。

「ええーーご当地へ参りましたのは初めててござりますが、当商会はピンツケをもって蟇の膏薬かなんぞのようなまやかしものはお売り致しませぬ。ええーーおそれおおくも、✗✗宮様お買い上げの光栄を有しますところの、当商会の薬品は、そこにもある、ここにもあるというふうなものとは違いまして……」

一体どこから仕入れてきた薬かわからないが、それを皇族の名前を勝手に借りてきて権威づけした上に、自分は蟇の膏薬みたいなまがい物とはちがう、と差異化してみせるところに、甚だいかがわしいものの、言葉たくみに面前にいる聴衆たちの心をつかむ「声の芸当」が目に浮かぶようである。短編小説のなかでは、実際に胎毒下し、目薬、打ち身の膏薬が次々と売れていったとある。
林芙美子は日露戦争の好景気にわく1903(明治36)年生まれだが、父親の麻太郎ら家族は、芙美子の出生の前後に門司から下関に移り、質物を売りさばく商売をはじめて、金を儲けると米相場にも手をだしたという。(註1)「風琴と魚の町」は、その父親の行商について尾道へ行き、そのなつかしい庶民の風俗をよく保存している作品だといえよう。特に、声と音楽がよく聴こえてくる短編である。

「尾の道の町に、何か力があっとじゃろ、大阪までも行かいでよかった」
「大阪まで行っとれば、ほんのこて今ごろは苦労しよっとじゃろ」
 このごろ、父も母も、少し肥えたかのように、私の眼にうつった。
 私は毎日いっぱい飯を食った。嬉しい日が続いた。
「腹が固うなるほど、食うちょれ、まんまさ食うちょりゃ、心配なか」(註2)

 尾道の町に、よその土地からやってきた家族が、異質な博多弁を響かせているさまが伝わってくる。林芙美子はこの家族というか父親のために、子ども時代を福岡、北九州、筑豊、門司などを「放浪」して育つわけであるが、しまいには尾道に落ち着くことになる。そんな作家の記憶のなかで、北九州と広島の方言が少し混じりあっているだろうか。

「まあ、美しか!」
「拾銭じゃいうたら、娘達ゃ買いたかろ」
「わしでも買いたか」
「生意気なこと言いよる」
 父はこの化粧水を売るについて、このような唄をどこからか習って来た。
  一瓶つければ桜色
  二瓶つければ雪肌
  諸君! 買い給え
  買わなきゃ炭団となるばかし。
 父はこの節に合わせて、風琴を鳴らす事に、五日もかかってしまった。(註3)

 商売がうまいものの、突然に妾を囲ったりする行商人の父親は、どこかから庶民の唄をおぼえてくる。それをアコーディオンの演奏にのせて商売に使おうするところなど、非常に商魂がたくましい。この父親は作品のなかでは、警察にしょっぴかれて家族を悲しませたりする男なのだが、この頃の憎めない庶民の大人のひとりとして描かれている。

 今回読んでみて、わたしがその作劇と空間的な描写に感心したのは「塵溜」という短編小説である。主人公の小なつは宮内という男が別れて田舎へ帰ってしまうと、治作という伴侶を見つけて郊外で世帯をもった。手紙のやりとりをしていると、すでに結婚して子どもいる宮内が突然に訪ねてくる、という内容である。その3人のなんともいいようのない曖昧な関係性を表現するために、人物のさまざまな空間的な配置が利用されている作品である。
 この宮内という男、調子がよいことに、元カノの小なつの家にあがりこみ、その亭主となった治作と酒を飲み、肉を食い、「ぜひ田舎へ遊びにきてほしい」などと強く誘う。それを真に受けてしまった治作が小なつを誘って、彼女の郷里でもある港ある海辺の町へ行くことになる。東京郊外から夜行で移動する描写があるから、おそらくは尾道が念頭に置かれているのだろう。しかし行ってみれば、宮内がよそよそしく、手紙で吹聴していた大歓迎ぶりからはほど遠い様子で、小なつたちは肩透かしを食らってしまう。
 同じ尾道の町を舞台にしているが、子ども時代の行商の記憶をつづる「風琴と魚の町」には甘美さが漂っていた。それに比べて、タイトルからも想像がつくように「塵溜」の方は、大人になって異性によって苦労をした女性の視点から、さまざまな思惑をもって動き、それでいて調子良くだらしない男たちのありさまが、春がおとずれる海辺の町の光景にしらじらと描かれている。この2本の短編を、同じ小説集のなかで読み比べることができるのは、なかなか好都合だった。

註1「作家案内」『清貧の書・屋根裏の椅子』296頁
註2「風琴と魚の町」同上24頁
註3 同上36頁

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