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居心地の悪さを取りに行かねばならない時

どうも。直也です。

恐怖と無気力に安堵している

ホラーが苦手なのに、YouTubeでホラーゲームの実況を観るのが好きだったりする。

僕たちが好んで観ている人は叫び声に定評のある人なので、あの良い感じの叫びを聞くにはホラーが必要……という図式。
もちろん他の企画や、ゆるやかな雑談もやわらかい声が楽しめてうれしい。

しかし僕たちにとってこれは、一概に喜ばしい視聴方法ではないようだった。
ホラー実況を観過ぎると、見終えた後に何も手につかなくなる。

「休憩としてこの動画を観てから○○しよう」と思っていたはずなのに、次の行動に移るためのエネルギーが消し飛んでいる。

より具体的に言えば、次に予定していたはずの有意義な行動は放棄され、エネルギーは恐怖の収拾に消費されてしまうのだ。
しかも感情の収拾には、本来やるはずだった行動に使用する以上のエネルギーを使うため、疲労を超えて無気力に陥り、何も手につかなくなる……のだと気づいた。

愕然としたのは、僕の中に恐怖と無気力で何もできなくなっている状態に安堵している傾向があること。

なぜ安堵してしまうのか、仕組みの話

「心理学的恒常性」という言葉がある。

変化を続けるのが自然の摂理なら、不変でいたがるのが人間の癖である。

たとえポジティブな変化だと理性では悟っていたとしても、新しい状況に慣れるまでの間は元の状態の方に安心感を覚え、できるだけそこに留まろうとする意識が働く。
たとえ元が不健全、あるいはネガティブな状態だとしても。


僕に起きていたのも、まさしくこの状況だった。

今、日常に緊張を強いられる場面は減り、トラウマ源からある程度の距離をとって暮らすことができている。

それはポジティブな変化であるはずだが、変化という名のストレスにもなっていたのだろう。

ホラーゲームから得られる、重苦しい雰囲気。
いつどこで何が起きるか分からない緊張感。
恐ろしい存在が出ても出なくても恐怖は続く。
これは虐待・DVが行われている家庭内の雰囲気に酷似していると思う。

そんな場所に身を置き続けることは体力をすり減らして当たり前だし、緊張が解けたら一気に疲労が押し寄せて無気力になるのも無理はない――そして僕はそんな状態に慣れてしまっていたようだった。

トラウマ源から距離をとれたという、一見喜ばしい状況がストレスとなり、無意識のうちに「慣れ親しんだ」緊張とその後の無気力を味わえる動画に吸い寄せられてしまった。
ごっそり吸われた気力はもはやその日のうちに回復しないほど凄まじいものなので、丸1日を慢性的な無気力を抱えて過ごす羽目になった。後悔している。

本当は、すべて分かっていたはずだった。

それなのに、再生ボタンを押した自分、無気力に陥った時に覚えた微かな安堵、「これが自分らしい」という思いがあまりにもショックだった。

自分を取り戻す為に、居心地の悪い方をとる

より自分が過ごしやすい方へ変化していくために、あえて、居心地が悪いと感じる行動を取り続ける必要のある瞬間が訪れる。

新しい、より自分に役立つ状態に慣れるまで、それが自分にとっての「普通」になるまで、居心地の悪さを自覚し、以前の状態と染みついた安堵に吸い寄せられそうになる自分と葛藤しながら。

僕にとってそれは、緊張と無気力を求めないこと。
平穏に慣れていこうとすること。

まだ時に落ち着かずに恐怖を摂取してしまう時もあるが、恐怖と平穏どちらを続けていきたいかと問われれば、僕は平穏を取る。

取り続けられる存在でありたい。





画像はPixabayからお借りしています。


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