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描写できるのは見ているものの一部でしかない

圧倒的描写力の限界

幻想作家と呼ばれる、レイ・ブラッドベリが大好きです。

個人的に彼の作品の魅力だと思っているのは、圧倒的に描写力。

まるでお伽話のような、けれども近未来的で無機質な……。

ふわふわしていて、冷たい。相反する触感を表現できることに、及ばない能力の違い(段階、あるいは方向性)を感じるのです。

特に気に入っている一節を引用しておきます。

そのあたりにはありとあらゆる時間が息づいていた。
(中略)
この町が美しいこと、まばらな街灯や古めかしい煉瓦が美しいことを、二人はいま初めて感じ、みずからひらいたこの祝宴の美しさに目を見張った。何もかもが夜の回転木馬の上をただよい、時折あちこちから音楽の一ふしが浮かびあがり、……
(火星年代記 232ページより抜粋)

「回転木馬」などというメルヘンな単語が登場する一方、このふたりは未来の機械を使って、夜中の空を飛び回っているのです。しかも翌朝には、ロケットに乗って火星へ飛び立ちます。

時は現在でも過去でもなく、2020年の人類がまだ実現していない未来。

それなのにこの文章からは、言い得ぬ不思議で甘い感じが伝わってきます。

こういう文章に出会うと、私はしばし自分のペースを忘れてしまいそうになります。

先達たちの文章があまりに素晴らしすぎて、今つづっている自分の文章など、取るに足らないものに思えてしまうのです。

けれどしばらく燃え尽きて、他の本もあれこれ読んで……。自分のペースを取り戻そうとしていると、別の事実にも気づきます。

どんなに言葉を尽くしても、文章で伝えられるのは、作者が見ているもののほんの一部に過ぎないということです。

私は本を読んでいる時、場面の情景が映画のように頭に浮かんでくるタイプ。

本は映画と同義です。

ですが、ちょっと読書中の自分を客観視してみると、ある面白いことに気づきます。

頭に浮かぶ情景を綺麗なもの、圧倒的なものにしているのは、私の想像力だということです。

作者さんの数だけ、文章の書き方(スタイル)があります。

レイ・ブラッドベリのように幻想的な書き方をする人もいれば、

「○○は××した」と、外見的な行動を淡々と書いていくタイプの人もいる。

「どんな」という詳細には触れず、ただ「モスク」と場所を説明する人も。

最低限、ねじれや読みづらさのない文章を書いていれば、あとのことは読み手にゆだねられているのかもしれません。

私は「モスク」と読むだけで、青いタイルに取り巻かれた、不思議で静謐な空間を思い描いてしまいます。

そこを進んでいく主人公の姿が、青っぽく美麗に想像できるのです。

「○○は軽く舌打ちして~」と書いてあるだけでも、舌打ちした音や、キャラクターの無愛想な顔を思い浮かべることができます。

逆に、冗長な文章が苦手な人は、「夜に回転木馬なんか浮かんでるわけないだろ」で一蹴してしまうかもしれないのです。

これに気づいた時、薄い壁をまた一枚通り過ぎたような気がしました。

言葉を尽くすのは、大切。

作者が見ているもの、思い描いた物語を伝えようとすることも、大切。

けれど、どのように伝わるか、どれくらいの美しさをもって伝わるのかは、読み手の内面次第なのではないか。

どうやっても、作者は読み手の内面に直接切り込んでいくことはできない。

相手の受け取り方をコントロールすることはできない。

ただ、できる限りの言葉を尽くす努力をするだけ。

同時に、作者は世界を見る目をすげかえることもできません。

レイ・ブラッドベリの描写が好きだからって、一瞬でレイの目を手に入れることはできないのです。

レイのような文章は書けるようになるかもしれませんが、どう頑張っても本人になることはできない。

完全に同じ感性を持つことはほとんど不可能。

それがまた、文章の面白さ、魅力なのかもしれませんね。



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