「恋愛弱者」という言葉の威力
内閣府はこんなことを研究しているのだと、ちょっと「ん?」と思った話。
私が「すごいな、この言葉」と思ったのは、「恋愛弱者」という言葉。
この言葉の威力、すごくないか?
『豊かで幸せな人生100年時代に向けた、恋愛の役割はなにか:恋愛格差社会における支援の未来形』の資料に照らし合わせるならば、私は間違いなく恋愛弱者だろう。
あの〜、壁ドンなんてその関係性によっては暴力行為にもなるし、その行為によってされた側がフリーズしてしまって、した側の優位性が高まるってこと、知らないのかな?ハンサムがやると許されるとかいう問題でもないと思うんだけど・・・。
そもそも恋愛は全員がしなくてはならないものなのか?
仮に恋愛→結婚→子供出産→少子化改善、という考えでこの資料が作られているのならばそれは違う。
壁ドン、告白、プロポーズの練習の前に、教育に取り組むことはもっとあるだろう。
私には叶恭子さんの言葉の方がよっぽど心に響く。
多様性と社会で言われるならば、恋愛をしない人も多様なセクシャリティもどんな容姿の人も尊重されるはずだ。結婚の形も自由だし、子供を持たない選択もあり、セクシャルマイノリティーのカップルでも子供を持てる社会であってほしいと思う。そして(ちょっと飛躍して)もし少子化に歯止めをかけたいのであれば、恋愛云々より、子供を安心して産める、育てるために社会はどうしたらいいのか、どういう教育が必要なのかをまず政府として考えるべきではないだろうか?
容姿は時とともにうつろい行くもの・・・。その容姿でなくなった時に発揮される人間力の方が大事だと私自身は思っている。
(そもそもこの資料の容姿のレベルを評価するのは得体の知れない調査員。その人の趣味も大いに反映されての容姿レベルである。人を評価する前に調査員も評価されたらいいと思う。他者に外見のみを評価されるなど不快でしかない)
恋愛偏差値を平等化してどうするんだ?もっと他に平等にすることがあるでしょうよ。
私は自分の幸せは自分で決める。
内閣府が今後どんな報告書を作成するか、見守りたい。
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