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フッサール『論理学研究』1巻の重要箇所をざっくり読解する(後編)

3ヶ月前に中編を書いてから完全に忘れていたすこし筆を置いていた『論理学研究』1巻のライブ読解。もはや内容というより、生々しいあがきと悪戦苦闘の痕跡ぐらいしか表現出来ていないシリーズではあるけど、とにもかくにもついに完結!

まずは当該箇所の全部の再掲。たどたどしくも、これまで⑦まで読み進めていたのだ。

①明証とはむしろ真理の《体験》にほかならない。
②真理が体験されるのは勿論、一般にイデア的なものがリアルな作用の中では体験たりうるのと別の意味においてではない。
③換言すれば、真理は一つのイデーであり、明証的判断におけるこのイデーの個別事例が顕在的体験である。
④しかるに明証的判断は原的所与性の意識である。
⑤この明証的判断に対する非明証的判断の関係は、ある対象の任意の表象的措定がその対象の十全的知覚に対する関係に類似している。
⑥十全的に知覚されたものはただ単になんらかの仕方で思念されたものではなく、思念されているがままのものとして作用のうちに原的に与えられてもいるのである、すなわちそれ自身現在し、余す所なく把握されたものとして、与えられているのである。
⑦それと同様に、明証的に判断されたものはただ単に判断されている(判断し、言表し、主張するという仕方で思念されている)のではなく、判断体験のうちにそれ自身現在するものとして与えられているのである――ここで現在するというのは、ある事態がある一定の意義把捉の中で、またその事態の種類に応じて、個別的または一般的、経験的またはイデア的事態などとして《現在》しうるという意味である。
⑧あらゆる原的能与の体験を包括する類比は次いで類比的な言い方となり、明証を自己所与的(《真なる》)事態の、または明らかに多義的にではあるが、真理の視作用、洞察作用、把握作用と呼ぶようになる。
⑨しかし知覚の領域では見ないことと存在しないこととが決して同じでないのと同様、明証の欠如も非真理と同義ではない。
⑩思念と、思念が思念する自己現在的なものとの間の、言表の顕在的意味と自己所与的事態との間の一致の体験 (Erlebnis der Zusammenstimmung)が明証であり、そしてこの一致のイデーが真理である。

フッサール『論理学研究』みすず書房,2015,pp 211-212
※便宜上の改行と行番号は本稿筆者による。本文は改行のない段落の一部。

さっそく行ってみよう。

⑧あらゆる原的能与の体験を包括する類比は次いで類比的な言い方となり、明証を自己所与的(《真なる》)事態の、または明らかに多義的にではあるが、真理の視作用、洞察作用、把握作用と呼ぶようになる。

はい来ました。本当に意味がわからないやつが来ました。いきなりつまづきました。

「〜類比は次いで類比的な言い方となり、」

なんぞそれ???

今回の3記事のうち、「書いてある日本語の字義そのままを理解する」という観点でいえばここが一番の難所で、単純に文法として/統語論としてよくわからない。

本書におけるフッサールの文章は概して一文がかなり長く、修飾関係と文型を同定するのにかなり骨が折れるという特徴がある。それでも、大抵の場合においては、丁寧に一語ずつ読んでいけばある程度の理解には至ることができるようになっている。でもここは違う。翻訳の問題もあるかもしれない。他の訳や英語版に当たる必要があるが、そこまで余力もない。なのでこのまま力技でなんとかするしかない。

まず「原的能与」、これはこの箇所では初出で(本書全体ではどうだったっけ?)、ググってもまるで引っかからない。「能与」という語自体が主要な辞書には載っていないので、関係がありそうな既出の「原的所与」(=予め与えられていること)と絡めて考える。著者も訳者もこの狭い範囲で所与と能与を明確に書き分けているため、相互に区別する意図があるはずである。

「能」は能動とか能作とか、自ら働きかけることやできることを表す語で、適当すぎるけどまぁベクトル(矢印)のようなイメージで考えてるとよさそうだ。「与」は言わずもがな、与える giveよね。他方、「所与」という語は哲学では既におなじみの単語で、given(与えられたもの)の訳語である。ここでの「所」が受け身(~れる/~される)の助字であり受動を表すので、能与はこの所与の対義語と捉えてもさほどズレはなかろう。すると能与とは「与えるもの/与えること」といった意味か。

そう仮定して進めてみると、原的能与は原的所与と対になる概念であり、「思惟や認識に先立って予め与えるもの」とするのが自然なように思われる。何を与えるのか。文脈からして、イデア的なものだろう(特に⑥等を参照)。

ではそれを与えるのは誰or何か。概念的な認識の主体=人間だろうか。いやしかし、真理は原的所与なものだとこれまでの記述にあった。それに主観的&種的な相対主義―万物の尺度は人間である―は別の章のフッサールによってこっぴどく論駁されてもいるのだ。

たぶんだけど、フッサール現象学における知覚者-対象の相関的な構造にとって、この言い分けはそれなりに重要なものなんじゃないかな。イデアを与える作用とイデアが与えられる作用は、知覚者の意識と対象の関係構造そのもののうちに(あらかじめ)生じてくるもので、それが認識を現に成立させる。

われわれ知覚者がとある犬を見て「あ、犬だ」と認識するとき、十全的な犬のイデアが予めわれわれに与えられているからこそ明証的な認識が成立するのだけれど、その出どころはイデア界に独立に存在する真理のデータベースみたいなものではなくて、知覚者の意識が犬と関係しながら与え-与えられる関係{のなかで|として}生まれてくるもの。こう言いたいのではないだろうか。

プラトンの叡智界や東洋思想の唯識における阿頼耶識、あるいはアカシックレコードとかが想定する「この世の全真理が詰まったパブリッククラウド」みたいなものからのフッサールの遠い隔たりを、この原的能与の概念から強く感じることができる。

はい、じゃあ踏まえて進んでいく。まだ4文字しか読めていない。

「原的能与の体験」は、能与されたものを顕在的・明証的認識として体験すること。

「あらゆる」その体験「を包括する類比」が「次いで類比的な言い方とな」る。

なんかもう全てがわからないが、「次いで」が何の次なのかというと、たぶん⑤の次だろう。この箇所全体で明証のなんたるかを説明したいフッサールは、すでに見た⑤で明証性-非明証性を別の似た関係の例を持ち出してアナロジカルに説明してる。⑥,⑦は⑤の補足説明。だからここは、「⑤の類似例に次いで、もういっこ類似っぽい言い方になるんやけど」て感じじゃないかな。

その類似っぽい言い方として、明証って「自己所与的(《真なる》)事態の、または明らかに多義的にではあるが、真理の視作用、洞察作用、把握作用」っぽく言えるよね、ということ。

自己所与的事態というのは「予め与えられていながら自ら与えているイデア的な事態(=事柄。※中編記事参照)」という意味で、上述のような認識の双方向性を自己所与という言い方で表現しているんじゃまいか。そしてこれはざっくり真理と言い換えられるよ、と。「多義的な〜」は読点の位置に問題があるが「真理」に掛かっているだろう。

明証ってのは真理を見るはたらきであり、洞察するはたらきであり、把握するはたらきである。ここで、明証がイデア的なものへと働きかけるものと言われている点に注意しよう。明証性というのは、心理学主義者なんかが言うようなそれ自体が真理を生み出す内的な「感じ」に尽きるのではなくて、予め与えられた真理へと働きかけ、それを体験する作用であるのだ。

以上ぜんぶをまとめる。

さらに例えれば、能与されたイデア的なものを認識として体験するってのは、さながら「明証」をイデア的事態(=真理)を視る/洞察する/把握するはたらきと呼ぶようなもんよ。」。


①を再度見てみよう。

①明証とはむしろ真理の《体験》にほかならない。

ここでフッサールが言いたかったことが、これまでの幾つかの言い換えの読解を通じて、かなり奥行きを持って把握できるようになってきたように思える。明証とは、イデア的事態そのものでなく、その《体験》であるのだ。


⑨,⑩はこの箇所の総仕上げとしての、「真理」についての言及である。

⑨しかし知覚の領域では見ないことと存在しないこととが決して同じでないのと同様、明証の欠如も非真理と同義ではない。

イギリス経験論の異端児バークリー(1685-1753)は、かの有名な「存在するとは知覚されることである Esse Est Perpici」テーゼによって、「誰もいない森で倒れた木は音を発しない」とさえ主張した。

この命題が真ではないのとまったく同様に、フッサールが言うには、ある事柄が明証を欠いていることは、その事柄が真理でないことと等しいわけではない。聞く人がいないからといってそこに木が存在しないわけではないように、判断者の判断の働きが無くとも、真理が存在しないわけではない。

明証は真理の体験であって、体験のうちに具体的な真理の認識が現に生じるものであることが繰り返し強調されてはきたが、しかしそれでも、心の働き(とりわけ明証)は真理そのものを決して基礎付けはしないのである。

⑩思念と、思念が思念する自己現在的なものとの間の、言表の顕在的意味と自己所与的事態との間の一致の体験 (Erlebnis der Zusammenstimmung)が明証であり、そしてこの一致のイデーが真理である。

主張されているのは2点。

  • A-Bの間の、或いはA'-B'の間の一致の体験が明証

  • その一致のイデーが真理

A-B。B「自己現在的なもの」とは、⑦「判断体験のうちにそれ自身現在するものとして与えられている」イデア的なもののこと。思念とその対象であるイデア的なものとの間の、一致の体験が明証である。

A'-B'。A'「言表の顕在的意味」は、つまり単に言葉の意味(例えば「犬」)と取ってよい。B'自己所与的事態は⑧のところで読んだように「予め与えられていながら自ら与えているイデア的な事態」。

この両者はともに、認識の働きと、認識されたイデア的なものとの間の関係を記述している。(ここで、フッサールが確保しようとしている論理学的な領域での真理として言表を介さない事例を全然思いつかないので、A'-B'「または」A-Bとは読まなくていいように思う。)

認識作用とイデアとの一致の体験が明証。上でさんざん繰り返し主張されてきたことである。

最後に、一致のイデーが真理、とある。一致の体験が明証であり、一致のイデーが真理。

具体的な心的事象として認識作用と自己所与的イデアの一致が体験される(=現在する)ことが明証であり、「一致」それ自体が体験抜きで範例として真理なのである。

ここまでの読解を踏まえると、この区別は別段難しいものではないだろう。

一致のイデー。認識の働きが、それ自体で与えられているものに「的中する」という事態一般。「犬!」と思う思考が、十全的に把握されていた「犬そのもの」の観念にヒットすることそのもの。この「的中しうること」それ自体が、真理というものの無限なる権能をここに確保するのだ。

これが個別具体的な認識作用の中で現に生じるとき、「当たった」という体験が「明証」と呼ばれ、「当たること」一般が「真理」と呼ばれる

ここで真理はまた、認識作用と離れては存しないものと明かされている。⑨において明証の不在は非真理と等しくないとされたが、とはつまり、当たりうることそのものが確保されている限りにおいて、未だ現に当たっていないからといって真理の非存在は帰結しないということだ。


やっと読解おわり。

ここでは、認識主体には絶対にアクセスすることができないカントの物自体も、それぞれの別個の認識のみが存在するという相対主義も、主体の認識機能(と明証の感覚)のみが真理を基礎付けるとする心理学主義も、ともに排撃されている。

真理の基礎として、認識の働きと認識先が協働し「関係すること」を厳しく要求するフッサールのこの立場は、のちに相関主義と呼ばれる。


視作用、洞察作用、そして意義把握の作用、これらは個々人の心の働きに属する、まったく主観的で、まったく現実的なはたらきである。現に存在し、現に生きているリアルなわれわれに属するものである。しかし、だからと言ってそれはまったくの偶有性、孤独に浮遊する雑多な思念に留まるわけではない。他者との交通を欠いた個人の勝手気ままな思いなしを超えて、イデア的なもの、〇〇そのものが「リアルな認識作用の中で」予め与えられており、明証性という痕跡として生じてくる。


古来より、普遍で純粋なイデアと、この世界の偶然的でバラバラな個物との関係については多くの論争がなされてきた。個物はイデアからその性質を”あずかる”。個物がイデア的なものを内蔵する。イデアは存在せず、ただ個物のみがある。個物も存在せず、一切は認識である。むしろ認識の形式が個物を形作る。この最後の2つが真理論として展開されれば、心理学主義となろう。真理は認識の形式に相即的である。

ではどこに、現在するのだろう。原的所与が、時間的なものとして、いまこの意識へと立ち登ってくるのはなぜだろう。そしてその”いま・この意識”とはどこで/誰で、どのようにしてそこに真理が与えられているのだろう。そのような権能を持つ真理と意識の本性とは。

心理学主義者がなんと言おうと、1+1が2であることは疑いが無いように思われる。クリプキに学び、数理論から研究キャリアをスタートしたフッサールにとって、譲ることの出来ない真理はそれである。『論理学研究』1巻は、一時の気の迷いから心理学主義に傾いた自身への激烈な批判の書でもあった。

ノエシス-ノエマ構造として体系化される意識への事物の現象の仕方が、大著『イデーン』に先立ちこの箇所ですでにして示されている。本書第1巻が刊行されたのは1900年。20世紀の哲学を決定的に方向づけた現象学の、ここには既にその祖型が極めて明瞭な形で屹立しているのである。

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