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独学考#5:文脈を置き直す(ための管理手法をわりとミスってたかも)

ここ最近、アルチュセールの概説書を少しずつ読み進めてて、多面的に衝撃受けまくってるんだけど、とりわけ徴候的読解とか認識論的切断の話とかを自分の学習/知的生産システムと重ねて考えていくともう全部が全部反省しきりって感じで、根底的に刷新しなきゃいけないかもなと思ってきた。いろいろミスってたわ、と。

自分の情報の集約の仕方ってわりとデジタル偏重というか、抜き書きとかは基本Scrapboxに全部突っ込んで、概念語同士のリンク構造をつけていく感じで。Scrapboxの特異的な特徴はそのリンク設置の簡便さにあって、秒でキーワードのリンク設置できて他のそれと繋げられるとこがヤバいから、それを軸に色々まとめたり引き出したりしてた。

こういう感じでリンクつけて、
こういう感じでワードの他との連関を見ながら色々考えたりする

つまり情報のストックと同時にScrapboxのツール自体の機能に寄りかかって遊びの部分を設けてるというか、創発的でファジーな要素を担保しようっていう設計思想。通時的/共時的に概念同士の関係の束を一望するダイナミックな把握、みたいな。オートマティックな観念史、みたいな。

そんで観念史的な把握がシステマティックにできるぞ!とか息巻いてたんだけど、アルチュセールを追っていくと、そのへんの旗色が悪くなってきた感じがする。

彼が言ってるのは(というかマルクスの中でまさに生じていたと彼が主張しているのは)、認識の場全体が特定の社会様式の中で"新たに"生じるとき、理論的な問題圏全体も古い問いの構造から新たな問いの構造に移って、そこにおいては用語法やら各語の意味規定や、「知識」たるものの審級すら刷新されてしまうということ。それが個人の視角からは「認識論的切断」として生じてくるっていうので、いろいろ考えた末に、これは一理あるな?というか七理ぐらいあるな?となった。

で、そういうのを踏まえて現状のなにがアレかというと、めちゃくちゃ便利なデジタルツールで超ピンポイントにノード指定して、緻密で仔細なリンク構造を持っちゃう手法って、こういう、全体の文脈とか文法自体が地すべりしちゃう事態においてすっごいめんどくさいんよね。全てを個別に組み替えていくしかない。細部が正確に密接に繋がっていればいるほど、全てをちょっとずつ繋ぎ直さなきゃいけないときにコストがかかる。

そう考えると、他方で本棚のなかで都度本を並べ替えたりするだけで文脈を繋ぎ変えるようなアナログさというかファジーで網目の大きい管理の良さが光ってくる。物理空間とその中にあるメディアの性質は、ピンポイントな情報の指示/接続を許さないところがあるけど、そっちのほうが文脈を有機的に置き直すのは得意だろう。得意というか、既成のシステムに寄り掛かる部分よりも自分の頭でつなげ直す部分が多く、そのための余白が潤沢にあっていいぞ、というイメージか。

そもデジタルなものは原則細分化に向かうものだし、システム開発でも最近のトレンドはもっぱらコンテナとかマイクロサービスとかだけども、実は長期的には大きい箱を揺さぶりながら頑張るのと比べてめっちゃ非効率だったりするのかもしれない。

一応クーンのパラダイム論とか昔かじってたし、大筋だと同じ話とも言えなくもないんだけど、いうてパラダイムが変わると整合性が取れなくなるだけで、何かが見えなくなるってほどには思ってなかったので、野放しにしてしまってた。良くなかった。でも改めてちゃんと考えていくと、自分の理解が刷新されていくうちに過去の語の問われ方/使われ方が決定的に変わる局面がそれなりに目立ってきてしまって、そのとき昔設置したリンクどもは使い物にならなくなるというか、ズレたりそもそもの外延が変わってしまってたりする。

なんかさー、別にアルチュセール、至極当たり前の話しかしてないとも感じるし、そのへんの知識論的なことをもっと自分で切実に考えてたら別の在り方があったんじゃない?とも思うし、でも方法論の領野では効率性を追い求めてしまいがちな自分としては陥りがちな事象だよねーとも思うし。彼が言うように、新たな構造の上に立つ現在においてはじめて、過去(のイケてなさ)を過去として比較しうるとしたって、社会と違って(いやそれに定位してるとしても)手近な各種様式をある程度制御してんのは自分だし、もっとどうにか出来たんじゃねーかとは思ってしまうよね。

どうしていこう、デジタル管理。

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