歯車ぐるぐる、はたらき生きる霊性~シモーヌ・ヴェイユ『工場日記』
はたらく、とはなんだろう。日銭を稼ぐ手段?自分の夢の叶えるための階段?それとも、他者とのつながりを感じるための行為だろうか。仕事がほとんど人生そのものと一体化している人だっている。
そういうことを、工場労働者としてはたらきながら突き詰めた哲学者がいた。大戦の時代を生きたフランスの哲学者シモーヌ・ヴェイユである。
シモーヌ・ヴェイユと工場労働~「狂気の沙汰」の哲学者
パリの高等師範学校を卒業したのち哲学教師をしていた彼女は、突如休暇を取って知り合いの機械工場に飛び込んだ。もともと病弱だった体を引きずりながら、1934年から翌年にかけて、2度の失職を経て3つの工場で女工として働き、その期間にまとまった手記を残した。25歳の年のことである。
第二次産業革命における重工業の勃興から半世紀以上が経ち、現代的な資本投下型のマスプロダクションがすでに大々的に行われいた。労働者の権利関係も労働基準法制も十分に整備されていない時代、劣悪な労働環境のなかで工員たちの搾取が進んでいく。同時に、20世紀初頭に産声を上げた労働の科学的管理法(テイラー・システム)が世界各国の工場に急速に導入されてゆき、人間が労働システムとして管理されはじめた時代でもある。
本書の手稿が執筆された翌年の1936年には、チャップリンが『モダンタイムス』で歯車としての人間像を描いた。
魂の手記~命を削った叫び
チャップリン同様、工場労働に支配と隷属の構造を見出し、自らもノルマと賃金の狭間で日々の糧を追って苦しみ抜いた著者の叫びが、本書には生々しく刻まれている。
論壇の高みから人間存在のなんたるかを説く学者のそれではなく、自らの使命を自覚して工場に飛び込み、ボロ雑巾のようにのたうち回るヴェイユの生きたまるごとの記録が、素朴な語りとして読者の胸を打つ。
同じくブルーカラー労働に従事した哲学者の手記として、アメリカのエリック・ホッファーのものが思い浮かぶ。湾岸労働者として一生のほとんど過ごした彼の『波止場日記』など一連の著作も労働のうちに分かちがたく結ばれた人間の有り様を深く洞察する好著だが、こちらはもともと知識人嫌いの風来坊気質であった。
ホッファーの日記の端々からにじみ出ているような、自由の潮風をそのままに身に受けるネアカ感は、『工場日記』を彩る陰鬱として煤くさい色合いとはまったく異質のものである。
多くの読者が我がコトとして共感しながら読めるのは、賃金とノルマ、作業効率に日々ビクビクしながら過ごし「今日も全部は出来なかった」と悔恨しつづけたヴェイユのノートの方だろう。
労働の悲惨さを受け入れる
人としての思考を徹底的に放棄させる労働。疲れ果て、何も望まなくなることを通じて生を疎外する労働。なぜこんなものが存在するのだろう。なぜ、この悪が。
人間に屈辱を与え、各々が充実した人生を送る気概をいとも容易に削いでしまう工場の仕事がどのようにして組織されてくるのかについて、本手稿では断片的ながら鋭い考察が数多く展開されている。
例えば、高度に専門分化された業務フローの中で全体の目的や因果関係が分からずに働く労働者は、原因と結果の結合から切り離されているという考察。しかも賃金はノルマ次第で、常に雇い主に有利な条件で搾取されてもいる。自分の手で生み出したものが、意味のあるものとして輪郭を結ばない。みずからの生の投入が社会的な価値の生産ときれいに相関しない。すると個人の生は簡単にその意味を失って漂流してしまう、と。
また例えば、工作機械と人間の配置のされ方にしたがって生まれてくる疎外の形式的な有り様への言及も、傾聴に値する。
権力と階層秩序が労働者からの際限ない搾取を正当化していくからくりが、いちライン工の目から見た個別具体的な「上司〇〇氏」「帳簿係△△氏」の振る舞いとして素描されることで、逞しいまでの精気とリアリティを帯びて暴かれていく。
しかし全体として、それらを単に糾弾したり、あるいは背後にある社会構造を指摘して皆の鼻を明かしてみせたりすることに、ヴェイユはほとんど興味を持ってはいないように見える。日誌の各ページに刻まれた筆致は、自らが置かれたつらく苦しい境遇に反して滔々とした語りの口調であって、まったく冷静に、いやむしろ怖いぐらいの淡白さを保っているような印象を読者に与える。毎日のノルマにもがき苦しむ声が紙面に漏れ出す刹那、それとは真逆のどこまでも俯瞰的で霊的とも言えるような静謐さが、労働そのものと人間そのものへ分析の眼差しを向けている。
そしてあまつさえ、われわれはその労働から喜びを見いださなければならないとまで、彼女は言う。
生の現実として避けようのない悲惨さのエッセンスが、工場労働のなかには詰まっている。そこにある不幸から目をそらすのは簡単であり、現にほとんどの労働者が安逸に流れていく。本書は反対に、悲惨さを受け入れつつそのど真ん中を突っ切って、生きる意義を深めていこうと試みる。
雇用主に対する義憤は、ここでは邪魔となる。自らが隷属状態にある。その事実をしかと認識する。それによってのみ、労働者の生活のあらゆる側面かが恩恵となる。自分を奴隷と捉えること。その低みからなら、この世界の一切が高いのである。生活のあらゆる局面から、自由・恩恵・連帯を感じ取ることが、今なら可能である。
ただ、どうだろう。これだけ聞くと、さすがにあまりに切なくないだろうか。
この不条理は為すすべがないから、仕方なく身を屈めて生きるしかない、と言っているように聞こえなくもない。それでは、隷属のもとにあって自身の内部に「無関心」の境地を求めたローマ・ストア派の禁欲主義者エピクテトスー「控えよ。耐えよ。」ーの単なる焼き直しではないか。
実際にエピクテトスを読み込んでいるヴェイユではある。それでも、奴隷制が遠い過去の話となり、人権概念も前数世紀にいち早く確立されてきたフランスで、踏みにじられるような屈辱のうちに工場労働者の一員となって働いた彼女が、その現実を直視しながらただ耐えろとだけ言うだろうか。もしそうであれば、その状態がなぜ「理屈にかなった状態でもある」のだろうか。
本書の真髄ともいえるこの箇所の真意をつかむために、われわれはもう少し歩を進めなければならない。工場労働を終えた後のヴェイユがたどり着いた神学・神秘主義思想へ。主著『重力と恩寵』の関係箇所を幾つかかいつまんで見ていこう。
神を待ち望む
単刀直入に言えば、つらく厳しい労働は、神のもとへと登っていく人間にとって唯一の道であると、彼女は見ている。
現世的な目的でなく、ただ生きるために押し出されて働くこと。運命の奴隷であるということ。
世の大多数の労働者にとって、仕事が誰かから強制されるものであることは、ほとんど避けようがない。強制される悲運から目をそらし、なにか高尚な自発的動機へとー例えば「他者のため」「世の中を良くするため」といったーすげ替えてしまう欺瞞を、ヴェイユは非難する。そして、裏切られ続けて意気消沈することが分かりきった倒錯にでなく、それを世界の必然として捉える心性に頼むべし、と。
そもそも、なにかを悪であると憤ったり、自分が不幸であると嘆くとき、人は欲望を持ってなにものかに執着している状態である。欲望があるとき、どうしたって思い通りに行かないこの世の一切は不条理であらざるをえず、それ即ち不幸である。
他方で、現世の事柄の一切に執着せず、過去にも未来にも期待せず、純粋な現在に生きる心のあり方をヴェイユは「真空」状態と表現し、そこに接近していくことを説く。
心を真空で満たし、無になること。そのためには、救いのない絶望が必要とされている。寄る辺のない不条理と不幸、それはまさに労働によってもたらされるものである。労働によって、この至高の果実がもたらされる。
義人ヨブは、すべてを奪われた嘆きと憤りのうちに神と対話し、人間理性には計り得ない神慮の前に自らの浅見を悔い改めた。現世における一切の知と善悪の判断は、神には届かぬものとして退けられなければならない。
真空を受け入れると、神=善がそこを満たす。すべてが必然であると看取したとき、自然的な報いが訪れる。世界への愛が溢れる。
ここにあっては、ただただ閉鎖的に自己の内部に留まるエピクテトスの個人主義的「無関心」は決定的に超えられている。
なお、彼女がいう「神」はたしかにイエスの父であり主なるイスラエルの神ではあるのだが、宗教的言説として無神論者が慎重に避けて通るような類のものとは毛色が異なっている点は指摘しなければならない。その内実は、既存のキリスト教教義に沿うものではなく、マイスター・エックハルトの「神性の無」や新プラトニズムの「一者」からの強い影響のもと、とことん無人格で無窮の神である。「神は◯◯でない」としてのみ指し示される、否定神学の神=無。上述の論の運びに龍樹の「空」思想を見た人もいるだろうが、たしかに神秘主義の影響下で古代インド思想をもヴェイユは摂取している。
そうであればこそ、ヴェイユのこの立論がいわゆる「神頼み」の話では全然なくて、世界の本源的な有り様の認識とそれによる「悟り」と強く関わるものであることが分かる。巨大工場での極限的な窮乏状態において我々人間の理性が悟る、神のまったき不在こそが、神の証そのものである。すべてが自然の必然であり、それ即ち無であると看取したときにのみ、神の愛がわれわれの眼前にありありと現れる。
ヴェイユの労働論が既存のキリスト教神学から逸れている点においてこそ、この申し立てが悩めるすべての労働者にとって、優れた実際的な価値を持つのである。
労働=死を通過する
改めて、労働とは、はたらくとはなにか。
工場を去ったあとも重度の頭痛を抱えながら労働運動などに身を投じ続け、若くして客死したシモーヌ・ヴェイユ。つねに弱者としての労働者の側に立って命を燃やし続けた彼女にとって、はたらくとは、自らに与えられた生を全身全霊で生き、ありあまる不幸を神に近づく道として全面的に肯定するための欠くべからざる営みであった。
時間労働、部品1000個を作り切るための所要時間、こうしたものが人間存在を虚しくし、低くする。単に奴隷として全生活の「期待値を下げる」のではない。篤い信仰も必要はない。人間にあてがわれた世界のあり方ー隷属によって条件付けられたものーを自覚することである。死せる物質としてーあるいは止まることなく煙を上げ続ける工作機械としてーわれわれをあらゆる執着から解放する。世界の大いなる因果の鎖に組み込まれることで、人ははじめて神を予感し、そこに至福の喜びがある。真に平穏な心持ちから、この世のすべてを恩寵として愛するのだ。
こうして、本書はシモーヌ・ヴェイユが編み上げるキリスト者的神秘思想の前夜をなす。本書執筆の時点では神への接近が企図されているとは言えないが、生涯を通じた広大な思索を一望に付すことで、本書が唱える「隷属のススメ」の到達点を晴れやかに見通すことができる。
彼女の思想が芽吹き、聖なる高みへと飛翔する発端をなす、哀しくも力強い(いまだ人間主義的な)労働讃歌である。
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