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絵のサブスクと、対話の多面体

ここ半年ほど、絵画のサブスクを契約して、じぶんの部屋に絵を飾っている。

使っているのはCasieという伸び盛りのサービスで、サイト上で気に入った絵を選んで申し込むと発送されてくる。新しいものを飾りたくなったら、注文してから今飾ってるものを梱包して、宅配業者に集荷を頼んで返却。オプションが色々あるものの、過去平均だとおおむね月額4,000円ぐらいだろうか。誰もが知る名画家というよりは、売出し中の若いアーティストが多く出品しているようで、点数もバラエティもけっこうある。

絵画がぜんぶ障壁画であること

思えば、人生の大半において、芸術とは縁遠い生活をしてきた。母がそれなりに絵を見る人で、子供のころに美術館に手を引かれていった記憶も1度や2度ではない。実家には今も、なんだかよく分からない静物画のごときものが飾ってある。でもその当時は、そして大人になってからも、絵画というものはどこかしら、自分の生きる世界とは直接的な関わりを持つものではないように思えていた。

人並みに興味が湧いてきたのはここ数年。なにか大きなきっかけがあったわけでもない。なんの因果か気になる画家がポツポツとでき、たまにそれらの作品を求めて美術館を覗くようになった。

ぼちぼち興味が向くようになると、改めてわかってくることがある。やっぱり、絵画はなにかと距離が遠い存在だ、ということである。

まず、美術館に足繁く通う時間や労力はなかなか取れるもんじゃない。大抵が駅からすこし遠い変な場所にあるし、夜遅くまでやっているわけでもない。

それに、仮に時間が捻出できたとしてもまだ難所がある。目当ての作家の作品に常時アクセスすることは難しい。とくに海外作家の作品の場合、日本の館でたまたま所蔵されていればしめたもので、それにしたってふらっと行ける近隣県とは限らない。見られるチャンスは企画展などで巡行してくる数年に一度だけ、みたいな状況はザラにある。

美術館までたどり着く。またしても、幾重にも重なる壁。混雑した館内。脳内を横切るざわめき。スタッフの鋭い視線。分厚く厳重なガラス壁。なんだこの厚みは。そしてロープ。人だかり。写真撮影は禁止です。白線の内側には絶対に入らないでください。

やっとのことで落ち着いて作品と相対する。しかし人気作であればあるほど、後ろに控えるのはひしめくほどの観覧の列。これをものともせずに作品の正面一列目でどってり構え続けるには、平素から滝行などのメンタルタフネスの厳しい鍛錬にいそしむ必要がある。

美術館に赴いて気に入った絵を何時間もじっくりと眺めつくして気の済むまであれこれ考える、といったことには、かような困難が伴う。絵画鑑賞という道のまえには、物理的・精神的な障壁が幾重にも立ちはだかっている。

だから、たとい誰もが知る人気作ではなくとも、個人的に気に入った絵画との距離を縮め、手元で好きなだけ眺めていたい。そういうニーズが、すごくあるのだ。そう考える自分にとっては、たとえば絵画のサブスクというソリューションはそれなりにスジの良い試みのように感じられた。

「対話のカタチ -Color and Shape-」

Casieでレンタルするのは今回が3作品目になる。

あれこれ選ぶ楽しさ、届いた作品を部屋になじませる時間、家族での会話も、そして交換・受け渡しの手軽さもそれなりに気に入っていて、続けているのだ。

色々試したうえで愉しいと感じるのは、やっぱり抽象画だ。自分なりの解釈の余地が多くあるし、考えるためにゼロ距離でまじまじと見続けても誰にも怒られない。サブスクというカタチとよく馴染む。

今回借りたのは、Kayo Nomura「対話のカタチ -Color and Shape-」。同氏の作品は他にも目を引くものが幾つもあって、複数ブクマしつつ悩んだ末にこれにした。

※写真利用はCasie社承諾済み

作者の方は対話を通じたライブアートセッションDialogueDrawingという一風変わった制作スタイルも持っているらしく、本作がその手法で産まれたものかはわからないが、ともかく本作のテーマは「対話」である。

第一印象はすごくいい。色合いがあざやかできれい。透き通る白の背景のなかに素朴な佇まいでちょこんと置かれている2つのなにかが印象的。決してビビッドな色味ではないが、それぞれが静かに内蔵しているエネルギーを感じる。

さて、対話のカタチである。そして色colorと形shape。カタチがカタカナ表記なのにはなにか意味があるだろうか。そしてformやfigureではなく、shapeな点は。

ひとまず、2つあるオブジェクトはそれぞれが別のものを表しているだろう。引きで見たときの丸と四角。躍動と充満。そこにはまずもって明確な差異がある。

対話の色と形と名指されているからには、それぞれが別の対話を表したものだろうか。もしかして、上が色で下が形?いやいや、どちらにもそれぞれ色が付いているわけだし、双方が色と形の属性を持ったものとして並置されたオブジェクトと考えるのが穏当だろう。その意味で、両者は等価だ。この2つは、それぞれべつの対話を表したものに違いない。

便宜上、それぞれA,Bと名付けよう。

このAとBの対質のなかで、表現されている対話のカタチのなんたるかに迫っていく道が、ひとまずは開かれていそうである。

A。Aは、躍動している。全体のフォルムはほぼ正方形で、これは人工の秩序に従っているという感じがするが、中身の構図からはそんな印象は全然受けない。開放的で乱雑。細い線はときに面的なものへと姿を変え、跳ね回っている。かと思えば規則正しく刻まれた点がところどころに顔を出す。Bには見られないきれいな円もある。各要素が自由に描出されながら、どこか移ろいゆく全体のリズムが存在している。その音階の変化に沿うようにして、アースカラー的な基調のなかに淡いピンク、オレンジらの伸びの良いコントラストがクライマックスを奏でる。

A部分を抜粋

これはにぎやかな対話。至るところに正負の情動がほとばしり、どんどんと無方向に変転してゆく話題のなかに、全体として一定のメロディが伏在している。そんな印象をまず受ける。

ではBはどうだろう。どちらかというと沈鬱で、しっとりとしたB。明るさに乏しく、全体が円形の枠のなかで所狭しと身を寄せ合っている。それぞれのパーツが、他のパーツの形からの制約を受けて自らの形を成している。とりわけ右半分の各要素は消え入りそうな頼りなさと寄る辺なさをたたえているが、それでも全体としてAよりもはるかに秩序立った印象を与える。使われている色彩の幅はAより広いが、もぞもぞとしたグラデーションのなかで、全要素がなんとなく落ち着いている。

B部分を抜粋

イメージされるのは、長年寄り添った老夫婦のあいだの、極限まで無駄が削ぎ落とされた数語の会話。どこか独語に近いような、一見すると暗くみえるが、しかしひとつひとつのことばが収まるべき所に収まっているような。

それぞれの対話が持つ、うちに秘めたエネルギーのごときものを測ることができたなら、実はBのほうが静かに充満したエネルギーを持っているのかもしれないな、と直感的に思った。

対話が持つ、色と形と、リズムと密度。なんとなく、各々のカタチにはまだ見えていない隠された内部が秘められているような気がした。

娘とのやりとり

…とここで、ちょうど学校から帰ってきた娘に声をかける。ピュアな6歳児の目には、どう映るんだろうか。

──この絵、どう思う?
いいね〜、とってもきれい。

──会話っていう名前の絵なんだけど、どういう会話を描いてるんだろうね?
うーん、わかんない!

──そうかそうか〜。上のやつと下のやつ、どっちの会話のほうがにぎやかそう?
あー、それはねー、下のほうかなー。

──下なのね!じゃあ、楽しそうなのはどっちの方かな?
それも下!だってね、にぎやかなお話のほうが、楽しいんだよ。

──たしかにそうだよね。そうかー、下かー。なんで下のほうがにぎやかだと思ったの?
うーんとね、だって、下のほうが金色でキラキラしてるでしょ?だからそうおもったの。

ん?金?Bの方が断然くすんで重たく見えていた自分はハッとした。たしかに、よくよく見返してみると、黄土色のように見えた部分がキラキラと輝いている。表面にうすく塗られたら金色が、視点を変えるたびに光を反射している。

そうか、見る角度でぜんぜん変わるんだ。

下から見上げていた娘は、ちょうど室内光の反射で金色のきらめきをちゃんと捉えていた。一方、やや見下ろし気味にずっと眺めていた自分は、それに気づかなかった。対話のなかで、絵の見え方が変わってきた。

娘はさらに言葉を続ける。

Bはパズルだ。ピースがたくさん並んでいる。なるほど、そういう視点はなかった。対話のかみ合わせか。Aよりもぴったりと噛み合った対話のカタチ。決して抑揚の起伏は無いが、調和の取れたコミュニケーションとしてのB。これはいい意見だね。Bを再評価する機運がどんどん高まる。

いや違う、と娘。Bはやっぱり、地球かもしれない。

うーん、なるほど?これはわからなくなってきたぞ。言われてみればたしかに、地球っぽくもある。そうなると、Aは地球の上に立ち上る巨大な湯気のような、雑多な思念の塊のような、地球上でこれだけの会話がなされているといったモチーフのように見えてきた。

対話の運動性、対話の弁証法

そうなると、別にこの2つの図形が並置された2つの対話という捉え方も、自明ではなさそうだ。AとBの位置付けを改め直すことを試みる。

地球+湯気説。まずこれはけっこう面白い。はたまた、上から降ってくる火の玉ストレートのボールA+軌道表現B?かなり刺激的な対話っぽい。

もしかしたら、AとBはそれぞれ一つのまとまった対話のモチーフでなくて、Aという一言↔Bという一言の1ラリーが描かれているかもしれない。あるいは、ある2つのタイプの対話(例えば激論と歓談)が無数に集まった「集合イメージ」を描いているのかもしれない。それか、対話者の心中に湧き上がる感情のほうを捉えたイメージなのかも。いや、対話中の話者たちのフィジカルな身振りやしぐさの模写という線もある。

あれこれ考えていると、ふと、さいきん本の中で見たある構図を思い出した。20世紀の前衛芸術家パウル・クレーの傑作『造形思考』。そこに出てくる、あれはたしか植物の生長する断面の構図。急いで本棚を探る。

出典:『造形思考(上)』パウル・クレー,ちくま学芸文庫,p. 89

植物の生態学への深い造詣から独自の造形論を切り開いたクレー。描かれているのは、かの鬼才がもっとも重視した、生長へと向かう物体の持つ運動性を図示した概念図である。

1では植物の茎の横断面(輪切りにした面)が遠心的に成長(4)し、2の縦断面では求心的な生長(3,7)へ向かう。なにかのカタチが描かれるとき、目に見える輪郭でも、網膜をじかに捉える色彩でもなく、この運動の内実をこそ、しかと掴まなければならない。クレーは作中でしつこいほどにそう繰り返していたのだった。

はたと気づく。

そうか、「対話のカタチ」のAとBは、対話というひとつのものの、縦断面と横断面とを描いていたのか

AとBとは、それぞれに異なる別々のものではなくて、対話というひとつのものの別の側面を同時に表していたんだ。あたかも、上へ上へと伸びてゆく茎を横から見た図と、それを途中でスパッと切って切断面を覗き込んだ図のように。

対話はAのような色・形を持ち、それとまったく同時に、Bのような色・形を持つ。

そうすると、植物の茎や幹のアナロジーでもう少し進めそうだ。

Aには、伸びやかな勢いがある。Bには、凝集する力がみなぎってある。そこは上で見たとおりだ。上下方向への伸び広がりと、内へ内へ踏み固めていく指向性。その両面を持つのだろう。対話とは。


縦横無尽でリズミカル、一見あちこちへと霧散していくわれわれの日常会話は、話された都度に華々しく離散し、果ては儚く消えゆくのみなのだろうか。だって世の中の対話の98%ぐらいは、たいして重要度が高くなく、際立った意味も新規性も持たず、翌日にはほとんど忘れ去られているような対話ではないか。

そうではない、とこの絵が主張する。その儚さを、別の角度からも見なければならない、と。ひとつひとつの会話があまりに行きあたりばったりで、死にゆく星々の毎瞬の煌めきであった(A)としても、対話者同士のコミュニケーションの全体を一挙に見通せば、なにかが凝縮され、なにかが整然さと密度をたたえている(B)。かつてのうら若い情熱的な一組のカップルが無数に交わしてきた場当たり的な対話の50年の明滅のうちに、あるべき場所に収まって以心伝心を可能にするようななにかがある。

対話が噛み合うという状態は、調和的で噛み合った対話だけを延々と積み重ね続けることでのみ実現できるのではない。むしろ、ひとつひとつの会話は跳ね回り衝突を繰り返しているにも関わらず、全体としてはじわりと整っていくようなあり方。

それぞれの対話が自由奔放に広がっていきながら、形成層が、維管束が、そして繊維部が適切に配置されてくる。そのような配置を抜きにして、更なる伸び上がりは望めない。

あるいは、時代を超えた対話、学説の体系、歴史そのものなども同じ枠組みで捉えられるかもしれない。短期的・局所的には衝突や反証の集まりとしか描くことができないコミュニケーションの系譜は、長い目で振りかえれば大きなひとつのまとまりとうねりを持ち、その中で小さなやりとりのそれぞれが「ところを得て」いる。そうするとBは、音声的な会話というより、むしろ「関係性」のネットワークに近いものなのかもしれない。

そういえば、対話dialogueという言葉は、古代ギリシャ語の「言葉」logos+「通じて」diaの結合語dialogosに由来し、ここから弁証法dialektikē(ディアレクティケー)が出てくる。Aと相容れない非Aが、その差異・矛盾を昇華してA'となる。一見すると異なる2つのものが、実は同じ1つのものであると知れることが、どうやら対話というものの核心でもあるらしい

絵画と対話の多面体

ここに至って、作者がどういう意図を持って描いたかという、いわゆる「正解」を追い求める気持ちは、もはや無い。おそらくは、上記の考察は誤答だろう。あるいはまた、これは絵画の「正統な」解釈理論や技術に基づいた話でもない。まったくの素人が、適当に考え散らかしているだけである。

それでも、いち鑑賞者としての自分の眼前に、「対話」という概念についてのあるまとまった世界像がいまは広がっている。その像は、この部屋の壁に他でもないこの絵が飾られる前には存在しなかったものだ。

少しの満足感とともに考える。

この作品と自分との対話のカタチは、どのようなものだっただろうかと。自分と作品、娘と作品、自分と娘。そしてリビングにいる妻なら、この絵となにを語らうのだろうか。この絵を取り巻いて、我が家のなかで、なにが、ひっそりと「ところを得て」いるのだろうか、と。

しかもこの絵は、まだウチに来たばかりである。対話は続いていく。

上記の認識も、意外に安定はしていない。ふとした瞬間、あれやっぱパズルじゃね?と思ったりもする。そうしたガチャガチャした変転のなかで、しかしなにかが少しずつ、整っていく。まるで小さなピースがそこここで一つずつはまっていくかのように。

こうして、部屋にいつでも絵があるのは、愉快である。


***


そういえばひとつ忘れていた。作者はカタチをなぜ"shape"と言ったのか、だった。ちょっと調べてみる。

formは一般的な形態、figureは平面の絵の形、輪郭。そしてshapeは、、、

立体的・物理的な形。

なるほど。じゃあ3次元を2断面で描いたって説も、まるっきり的外れということもないのかも。

さて、次はどこを紐解いていこう。

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