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前-記号的、舞う身体~イリナ・グリゴレ『優しい地獄』

本を生かすのは踊りのような言葉にほかならない。本もまた体の一部なのだ。

本書,Kindle位置番号. 161

精霊のような本である。著者が、というよりもこの本自体が、現し世のものとは思えないような浮遊感を全編にわたり纏っている。

ルーマニアに生まれ、日本に留学してきた人類学者の著者が、日本での暮らしと思索と観想とを日本語で記したエッセイである。

読者は、この非常に独特な文体に翻弄される。いともたやすく崩れていきそうなことばの脆く危うい配列が、しかし有機的に緊密に繋がりあって展開していく。脳内に急激に流れ込んでくる色とりどりのイメージの濁流。


雑誌サイトのWEB連載が単行本化されたものであり、ひとつひとつの章はさっくり読める。軒先の草花から現代社会の趨勢まで広範にわたるテーマが、まさにこの著者の知覚と感性の内側からしか出ようのないオリジナリティで、それぞれ織り上げられていく。

どちらかというと沈鬱な話が多いかもしれない。社会主義体制化の団地で繰り広げられる幼少期の地獄と、他方では幼い娘たちもが悟る資本主義の「優しい地獄」は、本書を貫く軸のひとつだ。その優しさは、救いへの道程にあるダンテの煉獄ではなくて、極刑がないが出口もない地獄の1丁目としての辺獄リンボのことである。描かれる双方の局面ともに、逃れ得ない地獄の一風景として並び立ち、本書に暗い影を落としている。

落としているのだが、それが不思議と鬱々とした印象をほとんど与えないことに気づく。幼少期の家庭生活にはじまり、チェルノブイリ、病気、青春期の苦悩など、痛みと苦味にあふれている語りが、たんに同情や悲哀の情を誘うものではない。

沈んだ世界も朗らかな世界も、いちど著者の身体を通過したそのままのことばで表現される。指標Indexとしての言語記号ー精神 Mindによる意味化作用による凝固物ーより以前の、身体 Body のレベルで表現された映像のようなことば。思うに、そうした次元で人間によって捉えらる世界の一切が美しいという、グリゴレの世界への信憑があるのだろう。

幻想的な無声映画を見ているような感覚が、読んでいる途中にずっとついて回る。夢と現の、生と死の狭間をずっと漂っているような。とことん著者の私秘的な体験記でありながら、どこまでも詩的に、自然の奥義に触れていることば。

フッサールの言葉を借りるなら、時間を伴う対象のあらわれとしての受動的総合とその《わたし》への現前としての能動的総合のはざまの部分に、本書の全体がどっぷりと沈潜している。個別的な一人称《わたし》より手前に並ぶことばが、「世界そのもの」としての身体的な直観を囁く。

そこに、「身体になにをまとって個人の生を生きるか」という問題について、自然と社会の記憶・儀礼・痛みの一切を引き受ける著者の静かな決意が感じられもする。すべてのことばの並びと浮遊感が、人間の歴史と生活の方向へと開かれていく。

象徴Symbolを看取り分析する人類学者の顔がのぞく刹那、映像の表現者としてなまの表象を身体の底の直観から取り出してみせたりもする、その絶妙なバランス感なのかアンバランス感なのかが、妙に心地よい。

まさにそうした直観の働きを研ぎ澄ますためにマリノフスキが推奨したのが「不可量部分インポンデラビリアに向かう」という行為だったのである。
人類学はそれゆえ、実際にはマリノフスキ以来存在していた二つの方法の併用という状況を、改めて正面から受け止めなければならない。 一方は、客体化された〈自然〉としてフィールドの現実の部分部分を捉えてゆく方法であり、もう一方は、直観によって「フィールドの全体」を捉えてゆく方法である。ここで重要なのは、客体化された〈自然〉が直観によって補われると考えるのではなく、直観の助けを借りながら、客体化された 〈自然〉を「フィールドの全体」の中に包み込む形で捉えることである。

『イメージの人類学』箭内匡,せりか書房,p. 299

意識に与えられる世界の全体を、そのまま言葉に刻んでいくこと。具体的な感覚体験を構造的な記述と併置し、融和すること。本書が達成していることである。

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われわれはよく、「この文章を母国語で読めて幸せ」という言い方をする。夏目漱石や太宰治を日本語で。ラブレーをフランス語で。あるいはシェイクスピアを英語で。原文の精妙な味わいはたいていの場合、他の言語で汲み尽くすことが難しく、もとあった文体のリズムや意味の多くが翻訳の過程でこぼれ落ちてしまう。母国語話者と母国語読者の組み合わせが最善とされる。

しかし本書は、著者の母国語ではない日本語で書かれたものとして読める幸せがあると思わされるところがある。それも、単なる耳障りの良さでなくて、不安と緊張、少し気を緩めると消え去ってしまいそうな儚さをつねに携えたものとして。

その日はたまたまスーパーで見つけた県産の小さめの天然真鯛を買わずにはいられなかった。鱗はキラキラしていて、娘たちの笑顔を思い出させた。あまりにも美しい鯛だったから、幻かと思った。(…)なぜか、魚をさばくことが大好きな私。この時間には自分は自分に噓をついていないし、すべてが平行に並んでいる気がする。人生は間違っていないと思う時間になる。私もあの鯛のように鱗がキラキラして空間という海の中を泳いでいるのだ。私も鯛になっている。今日の靴下は緑と肌色だ。肌色は何色とでも合う。  

本書,Kindle位置番号. 1654

この著者のことばは、ずっと読み続けていたくなる。

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