フッサール『論理学研究』1巻の重要箇所をざっくり読解する(中編)
前回の続き。
⑥まで読んだので、⑦へ。
長い一文だが、ダッシュ「ーー」で前半と後半に分けられる。前半が「明証的に判断されたもの」について、後半が前半の「現在する」という語の補足説明をしていそう。
まず前半。「明証的に判断されたもの」は、「ただ単に判断されている…のではな」い。「されたもの」という所から、明証的な判断のはたらきと、明証的と判断された判断の内容を分けて考える必要がありそうだ。2+2=4は自明であるという確信/心証と、そう判断された2+2=4の区別。
ここでのフッサールによれば、明証性という単なる心のあり方/感情のみがあるのではないということだ。2+2=4が絶対に真であるという確信は、判断の主体による精神的な行為/作用のみでは汲み尽くすことができない。
そうでなく、明証的に判断されたものは「判断体験のうちにそれ自身現在するものとして与えられている」。真と判断された2+2=4は、判断のはたらきのうちに、与えられている。これだけだと意味が全然分からないが、文の後半でなにがしかの説明がなされていそうなのでそのままにしておく。
ここで一度、前編記事の範囲のうち沢山転がっているヒントを見返してみよう。
「現在」という語は、⑥「それ自身現在し」の反復だが、まだ意味は取れない。ただ、②「リアルな作用」③「顕在的」という語と響き合っているニュアンスを感じることがひとまず重要に思える。
次に「与えられている」という語。⑥十全的知覚が「原的に与えられてもいる」=「余す所なく把握されたものとして、与えられている」とは、④の「原的所与性」と同義だろうと前編で書いており、いずれも判断するはたらきにまったく先立って予めそこにあるものを指すだろう。
「現在」を放っておいて前半をざっくりまとめると、「明証的に判断された内容は、単なる判断(のはたらき)だけじゃなくて、予めそこにあるものが判断体験を通して与えられてるんだよ」となる。2+2=4がわれわれにとって"自明"なのは、単に心の働きじゃなくて、もともと真であったなにか(真理的なもの)に判断という心のはたらきを介して触れてるからなのだ。
ここまで見ると、前半冒頭の「それと同様に、」は、⑥の十全的知覚(犬そのものの普遍的な概念)がわれわれに対して余す所なく予め与えられているのと同様、という意味とわかる。④=⑦の明証的判断は、十全的知覚とおんなじに、犬そのものの原的所与性へと心がはたらきかけるなかで体験されるもの。前篇記事の最後の方で書いた類比関係がかなりクリアになってきた。
後半。現在とは結局なんだ。
うん、「現在」の定義が循環していて根本的な解明には至らなそう。そして結構ふわっとした文でもある。
曰く、ある事態が意義把握のなかで色んな事態として現在しうるのが現在するということである、と。現在すること=現在しうること、とは一体どういうことだ。意味わからん。アリストテレスの可能態的な?あるいはドイツ観念論?とかいって匙を投げそうになるが、フッサールはソッチ系じゃないので我慢してみる。
「事態」とはなにか。不明。これは本書をざっと通しただけだとついに分からなかった。ともあれ、事態には個別的-一般的、経験的-イデア的といった種類/様相があることは承知した。「あの犬」「犬そのもの」みたいな概念とか、または「犬はワンと鳴く」「あの犬はワンと鳴いた」みたいな命題とか、そういうイメージでいいのか。そいえばウィトゲンシュタインは「事態」を「世界の中の事柄で、命題形式で表せるもの」としてたから、それを踏まえると後者か、あれでもフッサールとウィトゲンシュタインってどっちが先だっけ、影響受けてるんだっけ云々。。。一旦ここでは命題っぽい感じで捉えておこう。あくまで真理と明証性の文脈だし、真偽にまつわるものだろう。次。
「ある一定の意義把捉の中で」、これも不明瞭。「意義」はフッサールに影響を与えたフレーゲの意義Sinn-意味Bedeutungの区別―4が意味で、それを2+2とか1+3とか色々表現できるのが意義、みたいな感じだった気がする―があるが、それと同じ「意義」かは不明。別箇所でドイツ語表記や訳注があった気がするけど、もう本を図書館に返してしまった。とにかく「ある一定の」、すなわち「幾通りもの把握/解釈の仕方が許されている中でのある仕方での」というぐらいで置いておく。次。次。
現時点でだいぶ変数が多いので、ひとまず無理やり文意を固定しにかかる。「現在する」というのは、事態のあり方のこと。どういうあり方かというと、人がなんらかの事態の意義をなんらかの仕方で把握するとき、その仕方や事態の種類に応じて様々な仕方で現に存在するというあり方。「現在」はもう「現に存在すること」でいいや。把握するときに現に存在する、把握しないと現に存在しない、これが重要そう。
ここで現在「しうる」という言葉から、可能態的な、様々な形を取れるポテンシャルという意味合いに重きを置いて読むと、意義把握の仕方に相対的であるようなあり方で与えられている、となる。つまり色々な事態になりうる可能性だけあって、どれなのかは確定していないという状態で、結局現実態なのか可能態なのか???となる。ただ、「…イデア的事態などとして現在しうる」とあるので、ある様相の具体的な事態として「現在する」ことが想定されてもいる。これを鑑みると、「しうる」は「する」に読み替えてOKそうか?
いや、ここはもうちょっと素朴に、「ある真なる命題が、ある真なる把握のされ方で把握された場合には現在するし、そうでない場合には現在しない」という意味での可能性の広がりが示唆されていると読むほうが通りが良い。
つまり、なにかの事態が①意義把握のはたらきのうちに現に存在するが、②現在するかどうかは意義把握のなされ方や事態の種類次第やで、といった感じで押さえておければいいか。いいとする!
踏まえて⑦全体を改めて概観すると、、、
明証的に真であるとされる事態は、単にそう思ったっていうことじゃなくて、そう思ったというはたらき(=意義把握)のうちに、現に存在するものとしてわれわれに(予め)与えられている。
とはつまり、認識に左右されない真理が、与えられている。与えられてはいるが、しかしそれはわれわれによるある特定の意義把握を通じてはじめて、現にある事態として存在する類のものである。
うーむ、なんとなく、分かったような。そうすると、明証とは、予め与えられている真理を、(明証な仕方による)意義の把握というはたらき=体験を通じて個々に現実へと〈事態化〉することとも言い換えられる。
これ、③でやったやつだ!
裏を返せば、明証的でない(事態の)判断では、現在する所与はないってこと?また、予め与えられているとはいっても、それって不可知の物自体の体の良いパラフレーズなんじゃないの?などなど、疑問は湧いて出るが、とにかく進もう。文字数ももうアレなのだし。
ということで、後編へ続く。
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